まおゆうと嫁シャン

4巻まで読んだよ。漫画にはキャバクラリアリズムは皆無でオタク的な妄想リアリズムである。やはりアニメのいちゃつきスケベ感は高橋丈夫の作家性なんだろうな。とすればもうちょっとアニメのキャラデザは頑張ってほしかったところである。黒田和也的な意味で。
なんかアニメ1話を見る限りではもしドラに追従したデスノートコードギアスあたりを経由するポスト911で浸透した世界内戦状態への嫌悪という気分を前提にして夢想される潔癖症楽観主義の「戦争を終わらせる」ないしは「戦争のない世界」へのユートピア願望を描いたということで願望自体はそれほどイラつくシロモノではないのかなあと思った。少なくとも理解は出来る。しかしまおゆうの場合はデスノやギアスの作劇が強制以上の効力の超常現象においてしか他者を動員できない(世界平和の夢想を実行できない)であろうという人間観世界観があったのに対してこっちはどことなく人間を舐めている感じがするね。話せばきっと分かってくれるよねという薄ら笑い感というか、ボクは繊細だから〜名前を書くだけで人を殺せるノートで脅してみたり〜、絶対遵守の異能とかあ、そんな他人の内面を陵辱するようなことがしたいんじゃなくってえ、もっとスマートに〜、世界をいい方向へ変えていけたらなあって〜、そう思ってえ。(正気を失っている) しかしラブコメできるほど話の通じる魔族たちって改めて読むとだらしないメタである。

そして炸裂するメイド長さまの超名言www 2年ぶりくらいに見たけどここらへんのやりとりはやはり衝撃的である。ここは作者の覗いてはいけないグロテスクな一面がゴロリと顔を出したような怖さがある。でも同じくらい怖いのはここが一部の人たちの魂にピンポイント爆撃になったってことなんだよな。小説とか読んでて(これは元々SSですけど)、自分にジャストフィットする表現がなされたときってワッフルしてしまうけど、ある種の人にとってはこういうシチュでこういう表現をすることがジャストフィットなんだっていう衝撃が当時あった。別に言ってることは普通なんだよ。自分の運命は自分で掴み取るんだっていうありがちなメッセージなんだけど、え、それ、ここで? そして言われた方も返事がそれ? っていう。

章ごとに置いている解説によると農奴というのは貴族の土地のためだけの労働力として存在するようである。奴隷が存在しないRPG世界における奴隷っぽい身分のようだ。そして「人間と虫メソッド」が炸裂する。そりゃ人間に向かって虫と蔑めば言われた方は反発するだろう。その時点で農奴という立場の人々は自尊心を持つ立派な人間であることは分かりきってる。さて、となるとあとは何が問題なのかというとその農奴っていうものを成立させている統治制度のはずなんだけど作者はそれを農奴個人の内面の問題にすりかえる。充分すぎるほど人間的である姉妹に「私たちを人間にしてください」と言わせる。苛酷な環境から逃げ出してきた農奴姉妹はその農奴という立場においてこそ「虫」だったはずなのに、他人に迷惑をかける浮浪者になって好意にすがろうとする今のあななたちこそ「虫」なのですと説教をかまされるwww そして農奴姉妹は虫から人間になるためにメイド姉妹へとジョブチェンジするわけだが、その後でその土地の貴族が外道だったとか、農奴であることの過酷さとかには特に触れることはなく、普通に人のいい農奴のオッサンたちとメイド姉妹のふれあいシーンとかがあったりするw んでメイド姉はオッサンどもにお屋敷で働いているメイドさんはやっぱりべっぴんだねって言われて罪悪感おぼえたりしてるの。なぜってそれは自分が他人の施しによる好意で農奴からメイドになったからwww 農奴という立場から逃げ出そうとしたからwww やべえ〜、作者の人間観労働観やべえ〜w 魔王と勇者の革命劇のメインプロットではなくメイド長による作者の代弁プロットで炸裂するのでこれが素w メタとかパロディじゃなくて素。

プロットの進め方はRPG脱構築()というよりはナイーブ君のための逃避文学として楽しむべき。世の中を変えたいという気分を気持ちよく消費していくような感じである。ストーリーそのものは交渉や駆け引きや戦闘とか戦記モノのパターンをなぞっていて別にトリッキーなわけではないし、だからもしまおゆうに何かしらの作品性を見出すとすればやはりメイド連中の「人間と虫メソッド」になると思われる。こっちのほうが戦争のない世界へのユートピア願望よりもはるかに印象に残るw あそこアニメでどうなんのかなあ。相当ヘンテコな主張していると思うんだけど。
なんか自立とか誇りとかをくすぐっているところから察するに作者が考える完成されたあるべき近代的人間像への憧憬なのかもしれんが、それに当てはまらない奴、理解できない奴を「虫」と表現する。これは相当キテるw 言語感覚がすごいw RPG世界での経済ネタはメタな茶化しとしてまあ受け入れられるんだけど、作者が自身の内面を吐露したであろう「人間的であるとはどういうことか」っていう一番大事なところで「人間と虫メソッド」をさも世界の真理みたいに言い出すのでなんかおかしなことになってる。言いたいことはここでも分からないでもないのよ。たとえどんな時でも気高い魂だけは見失ってはならないというようなそんな感じのことがおそらく言いたいはずなんだよ。でもそれを言わせるときのキャラの内面(!)のロジックがマジで狂ってるw エンターテイメントとしての山と谷みたいな流れがあるなら別に狂ってるのもいいと思うんだよ。作者が言うとこの虫のままでも気高く生きる連中が出てくるとかね。でもそういう妄想を許さないSSの限界があるね。作者の主張とそれを体現する設定とキャラ、それを聞くためキャラだけで出来ている。

いわゆる真っ当なヒロイズムの持つ問答無用のアツさってリアリズムを寄せ付けない圧倒的かつ普遍的な人間性の魂の輝き()みたいなものを目指して描いているからこそ問答無用にアツいわけで。まあ最近はそれがうまく機能しないで激安になっているんだけどw そういうヒロイズムの激安化がまおゆう的な勇者というヒロイックな存在へのメタアプローチが生まれる余地を発生させたのかもしれないのかなあと。そして人間が(消費者が)ヒロイズムの激安化を認めたときに何が起こるのかというと自分の拠って立つロマンが喪失されるのである。知らず知らずのうちに「自分は何も持っていない」と思い込み始める。この世界にはもう激安のヒロイズムしか存在しないのだから、その事を認めている自分がそれに換わる何かを持っているはずがないと思い込み始める。
4巻でメイド姉が人間が人間であることの条件を断頭台の上で演説するシーンがあるんだけど、あの演説にグッとくる人ってその何も持っていないことに気づいている自分に酔っている人、ヒロイズムの激安化した世界を受け入れることが正しいと思っている人じゃねえかな。素で何かに目覚めた人もいるかもしれないけどw でもあの内容の演説にときめく奴ってどういうロジックで肯定したのか教えてほしい。(むかしたくさんの人たちがまおゆうを激賞しました) もちろんこういう書き方をしている私は何が起こっているのか分からないポルナレフ状態であの演説シーンを読むわけですが。だってあそこの主張は何もかもがおかしいだろw なにがおかしいかというとあそこではの二つの異なる存在がそれぞれ等しく美しいものとして存在しているということを思いっきり否定しているんですよ。 
「人間が人間的であるためには他人の優しさを受け入れてはならない」とか言い出すの。でもそんなことを言い出すメイド姉は優しくしてくれたメインキャラたちと別れてその後で自分探しの旅に出ることもなく、「うしおととら」の秋葉流みたいに自分の近くにいる人間の眩しさに耐えられないとかそういう超かっこいい理由で敵になるのでもなく、仲間たちから「お前の演説最高だったぜ。この国の民衆のあり方を変えちまったな!」とワッショイされるだけ。アレほんと何なの?w 
まおゆうの世界設定に則るなら、あそこでは「何々しない奴、出来ない奴は虫です」と排除を迫るのではなくて「私もあなたも誰もが等しく美しい人間なのです」みたいなメッセージじゃないとおかしいのよ。人間と虫がいるのではなくて世界のどこにも人間しかいないしそして農奴も王様も教会も同じ人間なんだってことを言わなくちゃダメなはずなんだよ。だって魔族と人間がラブコメしてるんだしw それくらいのヌルい作品なのに作者の「人間と虫メソッド」の推しがハンパないのw まおゆうで展開する主張は持つ者も持たざる者もそれぞれ等しく価値があるという世界観を否定していて、それどうなん? っていう。

漫画だと演説はキメキメに描かれているのでアレが作品のコアなんだなあって思うとさすがにぐんにょり。やっぱりこの作品は人間の清濁な心のあり方を舐めすぎているというのが引っかかる。民衆の心のあり方までも恣意的に定義してそれを自分の望む形に引っ張りあげたがるって潔癖すぎるでしょw 民衆を革命のために動員するってのはテクノクラート視点からは別に間違ってないと思いますが、作品の出発点、その作品世界の現在の姿を作者はどう考えているのかという部分で納得できないところがある。丘の向こうを目指していて、今現在そこに届いていないことと民衆の意識の高さ低さを関連付けたがるなと。あとまおゆう褒める奴も他人に向かって今のあなたは虫なので人間になったほうがいいッスよとツイッターでリプライ飛ばせるかどうかよく考えろw  …………。よく考えるとツイッターで似たような意味のやりとりはときおりなされているな。まおゆうは実はリアリズム! しかしまおゆうの「人間と虫メソッド」は否定すべきですね。4巻までの私の印象は今のところ「まおゆう 魔王勇者」というより「にんむし 人間虫」やぞ。

嫁シャン使ってる奴は自分の運命と自由を他人に売り渡した虫なのです。あなたは嫁から与えられたシャンプーを否定しなければなりません。それが楽だからという理由で嫁シャンを使い続けるのはただの虫です。リガオスを使って人間になるのです。
バカ言ってんじゃねえよ。風呂場に嫁さんのシャンプーがあるってことは毎日かわいい奥さんがそこで頭をわしゃわしゃしてるってことでそんなん萌えるだけだろが!(アララギ脳) 自分がすでに嫁とともに存在していることの証である嫁シャン。それでいいだろっていう。
まおゆうのダメなところはそういう嫁シャン的なアイテムすら用意せずにあなたは人間であることの自由を自ら放棄していますねって押し付けてくるの。知るかボケ!!!! 大きなお世話!!!!! 中世RPGのマネキンに近代ごっこやらせてえらいね〜頭がよいね〜とか痛すぎんだよ。オメーの頭の中を嫁シャンでちゃんと洗えよ!!!

すいません。取り乱しました。


作中で言われる丘の向こうってのはいわゆる現実の、作者と読者がいるこの世界を想定していると思うんだけど、まおゆうをはじめとして魔王系勇者系のメタコンテンツって価値観が反転して書かれているんだなあって今さら思ったな。古今東西ありとあらゆる知識と経験が費やされているこの現実の世界において書かれ続けてきた魔王と勇者、正義と悪、光と闇の神話の崇高さと偉大さというのはその真の姿を誰もが知っているが誰も見たことがなく、古今東西のあらゆる知識や経験と「同様に」現実の世界において求められ、作られ、語られてきたのであるという。その領域においてはどこぞの神話もどこぞのオタクコンテンツも求められる真の英雄譚を描こうとしている点において同じなのであると。神話や歴史上の人物も少年漫画の主人公もその本当の魂の輝きというのはいまだ誰も語ったことはないが誰もがその輝きの眩しさだけは知っている。みんな本当は激熱の英雄たちの物語が好きだけど(光)、それを幼稚だとツッコんでしまう茶化してしまう(闇)。そのことを忘れていたね。まあここは感想ではなく自分のために書き付けているんですが。(ミサワ) 
むしろ近現代だからこそそういった無疵の英雄、リアリズムのくびきから解き放たれた人間性の輝きが必要とされているようにも思えて、ツッコんで茶化してしまうという行為自体が無疵の英雄譚が存在しないことへの苛立ちの表明であるのかもしれないなあと、なんかまおゆう関係なくなってきてますが。あるいはまおゆうの作者もいくらかの時代性とユートピア願望を背負って真の英雄を描こうとしたわけで。なぜか「にんむし」に傾いているけどw
ちなみにこの感想は作中の経済ネタの是非とかそういうのは一切頭に入れてないです。知識もないので。私の関心はヒロイズムとその仮想敵とその効用であり、それが経済知識であろうが思想哲学であろうが二刀流で発揮されようが物語ならばそれほど違いはないです。というかまおゆうのやってることは普通にただの俺TUEEE系ファンタジーで、ネット民の消費作法以上のものでも以下でもないというのが公正な評価で、「にんむし」の妙な思想を丸出しにしているところが有象無象のSSとは異なる部分で、でもそれだけなので真面目な検証は無意味ではないか。

そして原作へ(ドラクエ風)
http://maouyusya2828.web.fc2.com/index.html
うん、読めない。上で書いたような感想はこの原作だけでは絶対書けない。 でも当時はコレで紛糾してたんだよな。すげえよw 人間と虫の部分とか見てもエクリチュール感ゼロw 作品世界の情景が何も浮かんでこないから読み取れるのはやはりセリフで表現される主張と、何がしかの否定と肯定のプロットの流れだけであり、これをよくあそこまでコミカライズしたな。業界人の構築力と読解力もぱない。