マジョノマンコカマンベール!、マジョノマンコカマンベール!(べべ語による挨拶

劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語というおもしろいアニメの映画がある、という話を聞きつけたので、一昨日の1000円デーで見に行ってきました。一日置いて、咀嚼してきたので、感想などを。感想というか、タイトルにつけた試論的なものを。
世界改変および時間的ループ構造を取り入れた作品は、不可避に、あるいは逆説的に(?)時間を失うことになるのだなあと、まどかマギカの世界は、この世界の外に、永遠の現在として閉じている。そこには誰も逆らうことのできない真理のようなものがあり、ゆえに不思議な静けさに包まれた世界があるかのようである。
何がいいたいかというと、相変わらずめんどくせえアニメだなってことですよw というか、ある意味ではほむらがおもしろすぎたw 何なんだよアイツw 最後のほうのほむらとか劇場で笑いが起こってもいいはずなのに、みんな深刻そうな顔して真面目にアニメ見やがって!w 
一言で言うと、苦手だったTV版とさほど印象は変わらず。でもほむらだけは、ボケ倒していて楽しかったですね。
よく、まどかマギカは先行作品のパッチワークやらのどうたらこうたらというような、ジャンルのお約束がどうたらこうたらというような語られ方をする。しかし、そもそも、一番最初から魔法少女がどうこうなんてものは、全て嘘である。虚構であり、全部間違っているのである。そんな語られ方をされるまでもなく、魔法少女なんてものは、ダメなのである。まあそれが言い過ぎならば、魔法少女は寓話であって、その寓話は、華麗で可憐で壮大な意味作用が与えられているのだ、と言い換えてもよい。
いささかうんざりするような、やや唐突に、弁証法的に繰り出された世界改変に則って、この劇場版でもまた新しい「永遠の現在」が現れて、一応のフィナーレということですが、うーん、僕が見たかったのは弁証法の更新ではなくて、そこで繰り広げられるであろう衝突のドラマだったので、それを期待していた分、まあ。素敵空間ではあるんだよ。それが特にシナリオ自体とは関係なさげな素敵空間ってだけで。さらにキャラに萌え的な愛着もないので、総合的には、うん。

作品としての意図がどうであれ、この作品には「他者」が欠けているように思われる。「他者」がいない、というこれ以上ないほど陳腐で紋切り型の批判の文言だが、事実そのように思われる。作品の意図がどうであれ。「他者」との出会い、そこに生まれる亀裂、敵意、合意、妥協、その不可能性、それらとの戦い、あるいは脱出、なんでもいいけれど、それらの印象が希薄なのだ。しかし、それは作品の疵ではない。
たとえば、見せ場のひとつであろうほむらとマミさんのアクションシーンという、このフィルムの中でのひとつの決定的な事件のあとで、その戦いを演じた本人たちが何かしらの対立の構図の変化や、合意や妥協を得ることはない。それぞれがなぎさとさやかに連れられて説明を受けるだけである。そして、その戦いの決着というか、落としどころも、妙にぼんやりとした、マミさんのスーパーイリュージョン的なトリックによって閉じるので、どちらかがどちらかに何事かを刻み付ける、というようなものではない。ファンサービス的なものらしいですが、二人とも雑魚いイメージだったので、こいつらずいぶん強くなったんやなというほうが強かった。みんなそんな見方してたの? てか絶好調の時のマミさんてw ついさっきまで仲良く茶をしばいてたほむらが全力で仕掛けてきてもまったく動じない鋼のメンタル! 皮肉すらかますあの余裕! マミさん、豆腐メンタルなのか、どっちや!w
好意的に見れば「すれ違い」によって事態を進展させていく作劇、というような言い方もできるけど、でもフィルムの中では各キャラクターは何度もイチャコラしまくってて、それを強調もしてるので、あんまりすれ違っている印象はない。会話がタルいというか、キャラの関係性ではない部分でぎくしゃくしていると感じる瞬間はありましたが。
そして、ある程度の種明かしのあと、ほむらの救出のためにキャラクターたちが総力戦を繰り広げるというサービス満点の感動的なアクションにおいても、それがほむらにとっての決定的な他者との対話になることはなくて、「輝きを待ってた〜♪」(μ's)じゃなかった「この時を待ってた!」と何かよく分からない謎パワー(愛!w)でもってまどかを円環の理から引き離すわけじゃないですか? 「世界がどうなったっていい!綾波だけは、絶対に助けるッ!!」というシンちゃんばりのダークなヒロイズムですよね。というかむしろあそこでは文字通り「囚われの姫君」であったのはほむらのはずなのに、みんなが迎えに来てくれたと思ったらアレですよw ほむらおもしろすぎるでしょw 「ここでボケて!」→「この時を待ってた!」あそこは炸裂してましたねw なにが?って突っ込まずにはいられない。いやお前待ってたっていうか、そうすることを決めたのって今さっきだろw ほむらさんノリノリすぎんよ〜w たぶんテンション高まって勢いで言うてしもたんやろなあ。
いちおうのメインであるほむらとまどかは、二人とも相手のことを勘違いしながらお互いを大事にしているような儚い印象を与えて、そこは萌えるのですが、あれは脚本の要請がお互い人の話を聞いてないように思わせてしまっていて、お互いがお互いにとっての決定的な「他者」となりえていない。だから演出で徹底的に補強されている。文芸面での説得力のなさはたぶん虚淵脚本の少女的なるものに対する嗅覚の弱さかもしれないと思います。あるいは僕自身のそういったものに対する嗅覚のなさ。さらには、まどまぎワールドおよび現在のオタクシーンが抱える少女的なるもの、その彼女たちの世界観への過剰な期待、という共同幻想っぽい何かがその説得力のなさを際立たせているように感じられます。ほむらとまどかが主人公であることを知っているのは私たちだけである。「他者」がいない? まさか。
ほむらは言う。「この時を待っていた!」と。ほむらは待機する。ほむらは待つ。ひたすらに待つ。その機会がやってくるのを待つ。そしてその瞬間が訪れるや否や、ほむらは一切をかなぐり捨てて反応し、行動する。まるで入力されたプログラムを実行するシステムのように。つまりは、この映画は他者との出会いと衝突のドラマではなくて、他者との接触の待機とその機会の物語ということなのだろう(ほむらのキャラクターに与えられた特性であるループ構造の、繰り返すことの姿勢もそういった「待つ」という態度も含まれている)。そしてあのおもしろいセリフは本質的にはほむらが言ったのではなくて、フィルムそのものが「この時を待っていた!」と叫んだと考えるのが妥当である。あのフィルムは待っていたのだ。何を? 機会の訪れを、おそらくは叛逆のための? だとしたら、何に対しての? たぶん、作品世界そのものに叛逆するために。

ちょっと暴論過ぎましたかね。まあほむらは基本的にまどか以外はアウトオブ眼中なところがあるので、まどかがあのお花畑で「守られてばっかりは嫌やわ、ウチも守りたい!」とかつってたらそんな感じのことができる世界改変をしてたんじゃないかなあと思いますが。(声優違う
たとえば、ヱヴァ破ではシンジのヒロイズムのせいで本当に世界がぶっ壊れてしまったわけですが、ほむらの場合は世界がどうとかあんまり関係なかったようで、平穏な学園ライフを辛気臭い顔しながらも送れるみたいで、よかったねって思う。あの新世界、ヘンテコな妖精(使い魔?)とかいっぱいいて楽しそう! あの終盤のスカしたほむらは内心ちょっとビビッてて、なぜってあそこはまだダークヒーローになったばかりのド新人であるから、わざとダークヒーローっぽく振舞ってる、いわばバットマンでいうところの「イヤーワン」の状態なわけじゃないですか? たぶん頭の中でどうやったら悪く見えるか考えながら喋ってる。あのわざとらしく通学路の真ん中に置かれたティーセットを見よ! やはりほむらはおもしろい!
仮タイトルは「やはり私の青春魔法少女ライフは間違っている」あたりでしょうか。やってることはアレのはちまんと一緒で、結局のところ、ものすごい壮大なかっこつけなわけです。また同様に、教室というシステム(学園ラブコメ)≒魔法少女が維持できるシステム(魔法少女ジャンル)そのものをぶっ壊す!、みたいなイマージュにはわざと到達しない。ちょっと不満なのはそういうところで、あの世界は魔法少女の寓話といじらしいハードボイルドニヒリズムを両立させるための舞台設定を整える程度の意味しか持っていないように感じられる。それはつまるところ、そういったヒロイズムを成立させている「この世界」、ある程度の現実との連続性を持つ世界、みじめったらしいこの現実の世界の出来損ないを再生産したにすぎない。
あの新しいシステムが、ひとまずは作品世界の真理、あの世界を成立させうる条件として提示されていることになる。だから、その真理の空間の中での超越性の獲得が、一個の到達点、終わりの場所、完成の場所として、受け止めることができる。もしあそこからまた続編があるなら、神と悪魔の黙示録が展開されることになるだろう。
だが、しかし、本当にそうなのだろうか? その真理の空間で彼女たちは自らの愛憎、友愛、共感、反発などのすべての感情を本当に自分のものとして手にすることが出来る。本当にそうなのだろうか?
叛逆してほしかったのはそこなのである。 その作中世界の真理をぶっ壊そうよ。こう書いてみるとめちゃくちゃ安っぽいけどさw 現実的な世界精神を持った真理があって、その真理の内部で神と悪魔が「殺し愛」なわけでしょう? でもそれってあまりにも普通でしょう? 神がいて悪魔がいて、一種の神話的な意匠を与えられた世界って、ごく一般的に共有されている世界観なわけでさ、いずれあの世界ではほむらとまどかが衝突することになるだろうって、それくらい当たり前じゃないかって思うんですよ。
世界を改変した作品は時間を失うことになるのだなあ(大意)、とはじめに言ったけど、つまりはあの作品世界は有限性が強調されてある。あの世界には外部を持つ超越的存在がいない。その作品世界に降りてきているから、神だろうが悪魔だろうがインキュベーターだろうが有限に囚われているのである。実際に干渉してあの世界を規定してしまっているのだから。そういった世界の語り方でもって、誤解を招くことを承知で言うといわゆる虚淵的な「ヒロイズムの否定」のひとつのやり方がもう一度提示されたのである。ここで言うヒロイズムは僕がいつも茶化しているネタとしてのヒロイズムではなくて、本当の意味で使うべき、この世界を貫くようなヒロイズムの意味でね。これは優劣の問題ではなくて、弁証法としての立ち位置が違うわけです。
唐突ですが、ときおり創作論などで言われる、村上龍だったかの言葉で、「物語には穴に落ちて、そこから這い上がるかその穴で死ぬかの2種類しかない」というこの極端な言葉に従って言うと、この映画だとまどかが円環の理になっていることが穴に落ちた状態で、今度はほむらが自分が落ちるかわりにまどかを穴から這い上がらせた、というような印象を残すけど、それは解釈の前提が間違っていて、あのオチでようやくあの二人は穴のある場所に一緒に立つようになったような印象。
僕は元々円環の理というシステムそのものがあの作品世界の陥穽であると思っていて、TVシリーズのオチを受けてのお話だから、それを覆して、映画のあのオチ。
あの世界では魔法少女の異能アクションが成立するのは、エントロピー回避のためでQべえが発効しないとだめなわけでしょう?(正直設定理解してませんが) そもそもまどまぎ世界は思春期の少女の希望と絶望の相転移()で生まれるような敵しかいなくて、魔獣とやらもよく分からないままじゃないですか。結局どこにも連れて行ってくれないわけじゃないですか? あのオチは作品世界をごく一般的な、プリキュアやらなんやらのバトル系魔法少女のモノに近づけたってだけの、ちょっと生ぬるいオチで、そこがアカンなあって思ったんですよ。もっとこう、魔法少女システムと魔獣システムの根本的な原理の衝突とかのほうが燃えるし、そこでキャラ厨カプ厨的なドラマを成立するのがやるべき仕事じゃねえかって。

実際のところ、多くの人が魔法少女モノから特権として読みとっているものは、ずいぶん空虚なものが前提で(子供のための慰み、大きなお友達etc)、それに壮大で華麗な意味を与えようとしてきたのではないだろうか。本当に叛逆しなければならないものは、その華麗なビジョンは空虚であると、そのように私たちに思わせている何者かではないだろうか。その空虚さに満ちた真理の空間の重力にこそ叛逆しなければならないのではないだろうか。そこまでの示唆はこの劇場版では受けることが出来なかったけれど……。

個人的には、ほむらの魔女結界の中で描かれているフィルムのもたらす感覚が、一番しっくりくる。あそこでは、描かれている絵面そのものが清濁を併せ持っているから。ほむらが魔女の結界の中で見ていたあの世界は、ほむらが夢見ていたのではなく、フィルムを見ているこちら側の私たちが夢見ていた世界である、というのは別に暴論でもなんでもなく、誰でも納得できるだろう。だって本当にほむらが夢見ている世界なんてさw まどかと自分がうわ何をするやめろってなもんですよw 絶対おもしろワールドですよw

ほむらいじりはさておき、作中では、あれは否定される。否定というか、「これは現実ではない」として、避けられる。メタ的には、ヌルい二次創作願望充足で塗り固められた世界である、というわけだ。でも、あの光景って本編のオチで示された世界よりもはるか先にある光景だなって思うんですよ。弁証法の果てにある世界の光景、魔法少女という寓話の世界。華麗で可憐で壮大な意味作用が与えられている「だけの」世界。魔女の呪いの意匠が施されているためか、変身シーンではことさらに、怪しく危険な雰囲気で演出されていますが、それはいずれ来るべき世界のあり方として妥当で、誠実だと思える。怪しく危険な力を持ち、可憐で勇敢であること。それが本編の意味作用と切り離された瞬間、序盤の30分間はこの世界をつらぬく矢のようにして、存在する。そして、ほむらの世界観から離れたさやかがヒーローのように現れる瞬間にだけ、このフィルムは世界を貫く矢のように存在する。これはレトリックではなくて、ただの事実である。ほむらか、まどかか、さやかか、杏か、マミさんか。誰がどんなものに成り果てようが、彼女たちの役割はなんでもいい。神でもいいし、悪魔でもいいし、ヒーローでも、囚われの姫君でも、かばん持ちでもなんでもいい。本編のあのオチの後ですらいつか誰かが活躍して、先にあげたシーンと同じような、しかし異なる別の光景を繰り広げるだろう。誰もがそうなることを心のどこかで予感しているはずである。それこそが一度語られた物語が持つ本質的な作用である。

その点において、まどかマギカはこの劇場版でもってようやくひとつの寓話になる準備を整えることができた。私にとってはそういう映画だった。というか、魔獣がいる世界なのだから、そういうのって可能だったはずだよなあって。もうナイトメアが魔獣でいいんだよw 愛の力で世界を書き換えられるような世界なんだからさw ほむらが作った世界は、ほむらが魔女の結界の中で夢見ていた世界と、似ている。その差異の中に、重力から解き放たれた天使たちの空間を呼び込むことが新しい仕事になるだろう。
なんか投げやりになってきたので、この辺で。マジョノマンコカマンベール!(別れの挨拶

カラフル(期間生産限定アニメ盤)

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これいい曲やな。まだ〜 誰も知らない〜 明日へと〜♪