キャシャーン

さて、キャシャーンを見たんですよね。紀里谷和明監督のね。宇多田が主題歌を歌ったりしていたんだけども。

「みんなの願いは同時には叶わない」という歌詞があってね。悲観的なリアリスムの認識で、2004年の時代精神として。そしてキャシャーンという映画の主題歌としてもこれ以上のものはない。言うまでもなく911以降の世界を見ながら、その世界に対するパッションを叩きつけた映画の主題歌として……。当時の日本人の、イラク戦争なんかとの距離感はこういう歌のような気分が漂っていた。そんな気がします。



実はちゃんと全部見たのは初めて。それなのにいまさら何か書くってことはまあ刺さりまくったからで、普通に00年代の重要作のひとつになるだろうと、なってもよかったのにという後付の印象。まあ、当時は興行はともかく批評筋からはたいてい冷遇されており、今もその流れは続いていて2015年現在では新作もコケてしまいなかば道化となっているような監督のアレコレなんかはまあさておき、すごい映画だったわけです。スクリーンの大画面で見たかった。

ある時代のある文化で育まれた感性で撮られた戦争映画であり、あるいは青春のパッションに満ちたヒロイスムとその不可能性についての映画であり……。狂おしいほどに無様にもがく様子がありえないくらい美しくて、なんかこう、ありがとうって言葉しか出てこない……。うっかり映画に転移したくなって、危ない危ないと警戒してしまうくらいw

単発のオタク映画としてみると、宮崎駿の冒険譚や富野の家庭の悲劇のエッセンスも感じさせ、JRPGふうの箱庭感覚の中でそのエクリチュールを駆動していく、軍事政権下のゴシックロマネスクであり、企画としてのコードギアスって美形趣味とかも含めてある意味キャシャーンと兄弟みたいなもんだったのかとw いや、僕が亡国のアキトにもっとあればいいのにな要素がキャシャーンにはすごいあるんですよ。編集のリズム感とかね。フラッシュバックの巧みさとかね。
あと最近言ってる007やSAOの主人公のキャラ造形なんかも同質だしね。一種の戦争状態の中にポツンと孤立したヒロイスムというかね。もちろん語り口による距離感はそれぞれ異なるものだけど、エンターテイメントとしてのヒロイスムの場所の模索があるわけです。

特徴としてはやはり、その作品世界における非歴史性、箱庭的、まあ大亜細亜なんちゃらという言葉を用いつつも、そして映画そのものが現実の世界に対して向けられているものだったとしても、それはやはり現実の戦争ではなく架空の戦争である、ということがある。その50年つづいているらしい架空の戦争においてもう劇中の世界は、冥い陰鬱なものとして強調されているのだが……。果たして……。
映画としての構造とその中にこめられた力っていう意味でもっとも近いなあと感じたのは『もののけ姫』です。戦争の中に叩き込まれるヒーローの不可能性と世界との対峙、そのいきつく破綻ぶりまで含めて。そういった巨匠の渾身の作品と同等のパッションをこめようとした作品だ、ということです。新造人間たちと少数民族の設定とかもうまくはまっているし、具体的な虐殺描写とかも、たとえばこの10年くらいのアニメ周りの人たちなんかがやりたくてもできない水準でフィルムに落とし込まれていると思う。

2004年っていう時期もけっこう重要で、ある意味臨界点だと。このやり方では、この構造と力で物を語るともののけ姫になり、キャシャーンになるというのが2004年であったと、19997年と20004年とだいぶ社会的な影響参照項や企画の立ち上がり方なんかもちがうはずだけど、このふたつのようになっていくことはしょうがないと。(2004年くらいから、日本のクリエイターたちはバトルロワイヤルの構造を自覚的にとりいれていくことになる)

まあ、ざっくりいうと、ヒロイスムが世界の真理のようなものとぶつかって袋小路になるわけですよね。少なくとも商業的娯楽的な価値判断としては、その映画の出来がよかろうが悪かろうが、行き詰る。まあ映画なんてものはそれでいいっちゃいいはずなんですが。でもまあ人間の心理はふしぎなもので、もののけ姫のあとアシタカとサンはどうなるんですか、とか海外のオタク祭りに招かれた宮崎駿に聞いちゃったりする。

なんかこう、戦争と平和の相互代償みたいな関係性ですよね。それが歴史なんだっていうリアリスムの要求があるわけです。

んでまあコンテンツの条件にある種の歴史性の復権が目指されるというか志向されるのは、わかりやすいのはガンダムのファースト周辺の歴史化だと思うんだけども、00年代には商売的にも洗練というか最適化されていく流れがあり、ユニコンガンダムなんかはそういう歴史のリアリスムに寄りかかって、ファンもそれに納得して、一定の支持を得ていると思うんですよ。ヒロイスムがちゃんと歴史に組み込まれていくっていうかね。良くも悪くもなんだけども。
どこそこの国のいつかの時代に起きた戦争を描くっていうことと、宇宙世紀の何年にあったどこそこのっていう。まあ矛盾は生じるかもしれないけど、それの優位性っていうのはそこを理解すればピントが合うってことですよね。戦前と戦後っていう概念にピントがあう。歴史のリアリスムとの連続性が生じるわけです。
最近ではセカイ系的な戯画化される極限状態からソフトランディングしていく、要するに戦前と戦後の輪郭を作っていく作業があって、進撃の巨人のことですけれども、ここはまあいいか。なんかだんだん話がズレてきている。。。(まあ実写進撃の監督がおおいに関わっているからズレているわけではないけども90年代00年代10年代の戦争アニメの構造と力というね。(それ80年代やで! (はい。これが言いたかった。

なんちゅうかまあ、2004年で、すでにここにこういう映画があったのかという驚きがあったんですよね。うまいこと歯車が歪な回り具合をしているというか、キャシャーンという題材というところから、尖った画面作りのPVディレクターで宇多田の旦那(当時)で、とか、脇にも才能ドンドン揃えて、で、このすごい映画ができた。

キャシャーンにおいて悲壮なのは、そしてその悲壮ゆえに惹きつけられる、そしてそれこそが作品の賛否の一番の別れどころになると思うのだけど、その現実の世界への切断の欲望と情熱、つまりは、このひとつのフィクションで、現実の世界の悲惨と悲劇を終わらせようという、愚かしくも甘美な革命への情熱っていう。その部分だと思うんですよ。この欲望は僕の個人的な物をかんがえるときのオブセッションのひとつなんだけどもw ある種のTUEEEの構造と力っていう。そういうことが出来るんじゃないかと考えてしまう瞬間がある。(まおゆうの発想ともコインの裏表かもしれません。(脱税を忘れるな。
キャシャーンのタイミングとしてはまあ911イラク戦争とかはまあ射程にあったはずだけども、映像的にはベトナム戦争っぽいトラウマシックだったりして、大亜細亜をはじめとしてもう、歴史に向かって大鉈を思い切り振りかざしているわけです。戦争というイマージュを包括させようという一種の傲慢さ……。それが確かにある。

いうなれば、世界の狂気に身を焼かれながらその狂気の縁をうろつくヒロイスムというものがあるわけです。戦争映画なんかだとね、けっこう類型があると思うけども。そこでは、その場所にいる兵士≒英雄たちはその自分が生きる世界の狂気を鎮めるような役割を負っていながら同時にそれを見る観客たちに向けて、その世界の狂気を見せ付ける悪魔的な存在としても語られることになるわけです。キャシャーンも主人公のテツヤをはじめ、登場人物の多くが大仰なまでに引き裂かれたキャラクター造形を与えられているわけです。人によってはそれが安っぽく野暮ったく見えもするだろうし苦笑や冷笑を誘おうとも、しかしそれが現実のこの世界の狂気に関わる領域、真理の空間と地続きであることは確かなので……。

そして、キャシャーンの切断の欲望が意味するところ、その切断の本当の目的は召喚した「真理の空間」と現実の世界を直接連結させること、ややこしいけれども、説話的な物語空間と切り離されて、見るものの現実との交渉をその映画のミッションとすること、つまり、映画の中で直接、セリフにされる「言いたいこと」に反発と共感が発生する。戦争状態を映画の通奏低音にして観客の目の前に投げ出される世界の狂気がうずまくその真理の空間をまず提示すること。

人間の業そのものとの対峙、そういったものが、監督の世界観のコアなのでしょう。処女作には作家のすべてが宿るというのはまさにこれのことじゃないかなと思う。

つまりは、監督はこれを見るものに革命が起こることを望んでいたはずなんだよね。傲慢に世界を切断してまでも起こしたい革命とその不可能性というのにも半分自覚しており、だかららできるのがこれっていう。


誤解を恐れずにいえば、とんでもないマッチョイズムの発露がある。聖母のカーチャンとか聖なる恋人とかも含めて。身勝手な男たちの馬鹿馬鹿しい争いの寓話としてみることもできるんだけど、構造としてはそうなっているんだけどそこに宿っている力は決してそれに堕してはいないと感じさせるものがある。 家族や恋人というイマージュの群れがばらまかれているんだけどそこは誠実で、真摯なものとして捉えられている。出てくるやつらはひどく人間的で、凡庸素朴ですらある。
あらゆる時代や国家の悲劇を切断するかのような傲慢なパッションをさらけ出してまでこの映画が発見したことはみんなの願いは同時には叶わないという事実であり、それに気づいている監督がただひたすらがむしゃらに、それを引き受けるためだけにこの映画が撮られたのだとすれば? 


そして、この映画の、自転車の二人乗り(!)を忘れないようにしよう。ほとんど夢オチを連想させるくらいのあの落差。グリーンバックからどこかの河原か草原のロケーションへの飛躍。衣装や画面のフィルター効果、それまでのコテコテCGとまるで違う柔らかい質感に、この世界の街路に接近を試みたようなあの画面とテツヤのモノローグ。
最後の最後に希望が生成されるという宣言。生成されるということを本気で信じている人でなければこんな映画は作れない。

ブルーレイはでていないw

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余談
袋小路に陥ったマッチョイズムが起こす混乱とそれに対するヒロイスムの苦悩と不可能性とか、まあダークナイト劇パトの構造であって、まああの辺を雑に「イズム」で語ると変なのに絡まれたりしそうだけどw まあそれこそただの構造であってそこに宿っている力が失せるわけではないのです。
まあ2015年とか2016年になるとけっこう構造的にも力的にも変化があるもので、その変化に亡国のアキトのレイラ・マルカルがブチ込まれるだろうと期待があるんだけど。
で、なぜこの構造に変化が起きたか、起こせたかっていうと、アニメシーンにおけるキャラクター造形におけるイマージュが生成されるときに属性として付与されるガールズパワーの拡大ですよね、ざっくり一言で言うと。というかもうこの辺のことは亡国のアキト論の下書きでメモっていることなので、まあ大枠で外れたらそこは消すっていう弱気なスタンスでいますけれどw

いやホント、すばらしい映画でした。キャシャーン