姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス)

姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス)

魍魎の匣 (講談社ノベルス)

魍魎の匣 (講談社ノベルス)

狂骨の夢 (講談社ノベルス)

狂骨の夢 (講談社ノベルス)

年始から京極夏彦を読み耽る。暴挙がすぎたのか3冊でダウン。長すぎ、無理。再読なのでトンデモトリックの鮮やかさよりも小説の意匠の暗さを目当てに。やっぱ京極は00年代を準備した作家なのだなと。「人間をやめてしまえばいいのさ」というセリフに集約されるアンチヒューマンっぷりに萌えます。人間が「人間なんてクズだ」的なことを口にするときはおそらく失望とか絶望みたいなもんがそのセリフの前にあるはずで、それは美しくあるべき世界が美しくないことに対する憎悪と寄り添います。それをSF的想像力で原始的にブチまけたのがエヴァ劇場版であると、ムリヤリ接続させるのはエヴァオタの性。思春期にそういうものと運悪く対峙してしまったのでそれの克服が宿命づけられました。もちろん時間が経てば完全にとは言わないまでも消化できるもんです、フィクションだからね。でも消化したら血となり肉となりその性質を帯びてしまうのです。エヴァの後でどうしたらいいのかというのは現在進行形の問題でファウストセカイ系もそりゃ流行るわってなもんですよ。90年代半ばの京極の非人間的でゴシックな意匠、世界が終わってるなら人間も終わっていいか的な気分を自覚的に享受していたのかいなかったのか。これはいわゆるゴス系な人たちの感性と地続きなはず。なんにせよ世界と対峙するための装置なり武装なりを発明していかなきゃならんというのはシンドイなということですよ。楽園にたどり着くためにその楽園すらも燃やし尽くさにゃならんほどに。楽園に行けないならここを楽園にすればいいじゃない、方法はあるよ、きっと。そういやアニメ新番の時期だけど高度資本主義の速度もある意味楽園足りうるのかもしれんな、始まりと終わりの境界線で立ち尽くすことなく何かを追いかけられるのも悪くないと。ハイ、ここで搾取とか言っちゃダメ。まるくすタンに亡霊とか言われても亡霊にだって萌えられるさ。