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SAOの第一層。「ビーターや!」と関智声で言うキバオウはんは真実を知らずに主人公を嫌う引き立て役なわけですが、はまち6巻はキバオウ役の設定が安易なんですよ。キバオウをなぜか関西弁にしてしまう川原礫の天然の悪意に比べると、はまちはスクールカーストモノっていう枷を意識させられる。思い返すと、はちまんは別にそこまでひどいことをやってないし、言ってない。なのに嫌われ者を引き受けるヒロイズムを(読者に)成立させたというのは出来がいいってことなんだろうけど。でもこれを褒めてる人はSAOのあのエピソードも大好きなはずなんだよなあ。あんなやり方しか出来ないキリトさんに喝采があってしかるべきで、しかもキリトさんは少なくとも第一層のころははちまんと違って誰一人として理解者がいなかったんだぞw やはり川原礫が最強か。
いや、ぼっち主人公がスクールカーストもので俺TUEEEを反転しつつもきっちり炸裂させたところに、そのレア感において褒めるというなら特に問題はないはずなんだけども。多くのライトノベルはエロゲー的ギャルゲー的な、ビジュアルノベル的な楽しみ方や読み方で受け入れられているし、書かれてもいる。この6巻とかもう完全にはちまんは雪ノ下ルートの攻略のために悪役を引き受けるわけで、オニンニンに素直になりすぎてると思うわけですよ。だから激安化してしまったなあというのがあってですね。正直わりとどうでもよさげなのにまわりが褒めすぎるとオイラの天邪鬼なこじらせが反応しちまうじゃねえかっていうもにょりが。キリトさんとか、上条さんみたいに、はちまんさん扱いになってもいいのに、ガチにぼっち系カースト系を描いたみたいになってるのが。が。
スクールカーストというリアリズム(?)の中でヒロインとの山場で誰かを救うとか救わないとかになりはじめて、「え?」ってならない? 化物語じゃないんだからさ。
007スカイフォールでボンドガールの姉ちゃんが内心の動揺を隠せずに手がプルプルと震えるというすごいおもしろ演出があるんだけど、みんな本気であれを傑作だと思ってるのかなあというのと同じ気持ちがはまちにもある。
作者の提示するスクールカースト観というか文化祭観というのがこっちと全然一致してないせいかなあ。まあ地の文ではちまんがそう思ってるだけだとはいえ。
いや、今回はちまんのやったことは普通に不特定多数にモテるでしょw 女子はゴシップ大好きだから。わざとルール破る男子の内面とか完全に見抜いて珍獣扱いされつつもモテるのw だからリアリズム路線で言うと相模ちゃんのフラグ立て回にならないとおかしいんだよ。「あ〜もうムカつくなんなのあいつ、でも気になる」次号へ続くが正しい。でも間違っているラブコメなので、(葉山とか相模ちゃんの持つ世界観を意図的に矮小化しているので)ああなるわけだけど。そういういい訳が成立しないことも無いと思うけど、やはりもにょるw
俺が読めてないだけではちまんが素でキモメンだったりすることを作者も読者も引き受けているのかしら。
どっちにしろ、ライトノベルで表現されるぼっち主人公の欺瞞みたいなものを強く感じてしまいましたね。