営みってやつですよ。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060825
声オタが声優を語るときにどうしたってアンビバレンツな感情を抱かざるをえないのはなんでかな、と。声優1人、1作品、1話、1台詞を電波経由で言語化する楽しさすら、それを読む側にとっては「妄想されたその声優」としてしか機能しないという現実がある。如何ともしがたいほどに。声優が好きすぎるために言語化不可能な観念にとりつかれた声オタは電波経由で言語化する楽しさにも戸惑いながら声優と自分の間にある観念に立ち向かっているわけで。
たとえば、小説や音楽のレビューなら情報以上の何かは、作家性やアーティスト性と呼ばれるものが比較的生成されやすい。そのうえで、読んだほうがいい、聴いたほうがいい、お薦め度、百点満点、といった情報として純化していく作業も容易になる。だが声優は?
声優性というのも声オタ語として捏造せざるをえないようなものだし、声優という一つの文化をどう扱うべきなのかさえ分かってない。「なぜ声優を語るのか?」「そこに声優がいるから」というアホみたいなフレーズさえ浮かびかねないよ。夏葉さんがいうところの電波系声優ファンはサブカルですらない文化である声優を語るという過酷な状況にいることは間違いない。有利でも不利でもない過酷さ。何を言ってるのか分からなくなってきたがニュアンスは伝わってるだろうか。でもまあ、ぶっちゃけ声優の顔と声とおっぱいと服装と同じくらいには声優性を愛したいってだけの話かもしれん。
願わくば、愛に優劣がありませんように。
「ねえねえ、わたしのどこが好き?」
「声」