俺らはみんな「他者」が大好きなのさ

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20060908
他者としてのロボ子な。希望の確認つうか
「それじゃ僕の中にいる君たちは何?」
「希望なのよ。」以下ry
「僕はもう一度会いたいと思った、そのときの気持ちは本当だと思うから。」とまあ、さして意味の無い引用をするくらい他者が大好き。レムとかディックとか言われてなんかたぎっただけともいう。おおざっぱに言えばアイデンティティクライシス?なのかなーと。エモいロボ子萌えは実際抗いがたいほど魅力的でだからこそ延々と、SF的想像力の黎明期から現在に至るまで書かれ続けるのだし人間が人間主義ファックと言ってもまあ待て、とりあえず萌えてみようとなるのでヘタレな保留。
例えば、まだ読んでないのだがレジンキャストミルクの新刊の帯には「マスター、好きって何なのでしょう?」というあまりに露骨なロボ子の憂鬱萌えが書き記される一方で人外萌えの頂点たるソラリス、もしくはレムの一連の人外萌え小説では「他者」たるワケワカラン存在たちは「好き」どころか人間にほとんど関心が無い。ねじれた他者の不在として?しかし、だからといって安直なラノベショボイ、という方向に転がらないでおこう。俺たちが好きなのは他者との遭遇であり接近であり、対話であり戦闘なのだから。
機能としての愛が錯合するのはあまりにドラマチックというか、やりすぎるとほとんどバイバイヒューマンなバラードっぽい「夢幻会社」みたく天使的にすぎるというか、まあ、あれ大好きなんだけどさ。
まずは自分の中にいる自分、そして他者。レムがほとんど神的観念に至るまで突き詰めた萌え要素、それをもう一度やり直してみよう。あるいは繰り返してみよう。レムのうんざりするようなビルドゥングスロマンを、あるいは成長した中年が残る物語ではなく、成長した俺とロボ子が残る物語を。
「気持ち悪い」
終劇