Alive聴いた。チキ読んだ。

宇野さんがゼロアカの生徒みたいになっていた。教師東浩紀にシンパシーを覚えた。「矯正してあげてもいい」的な。冗談です。
あずまんがいちいちカッコ良かったので宇野さんは押されてたけど、まだ矯正されるわけにはいかないっぽいのでラブワゴン乗りながらイジける模様。宇野のフェティシズムの欠落はあずまんも気にしているようだ。フェティッシュへの理解の無さは「お前分かってないよ」と冗談で誤魔化されたところもあるけどやっぱり宇野は分かってなかったんだな。適当に言えば性感帯を持たない妖怪人間は性感帯を持った動物を羨ましがるという。憎むが正しいか。宇野のフィクションの装備の仕方はある意味ですごく現代的であずまんも似たようなこと言ってたけどそれは終わってるというか批評に還元する次元にないというか学校や会社での会話のネタと同じというかそしてもしそこで「ぶっさんの終わりのある日常を見つめるスタンスっていいよね」とか言おうものならどんな断罪と迫害を受けるやらといったことになってしまいかねない。少なくともラブワゴンのドアを開ける合言葉はそれではないだろう。知らんけど。クドカンがドラマに輸入したメタバラエティとしての劇場的日常を見てコミュニケーション能力を磨けとかならまだ分かる。ニチジョウイズデッド、夜神月もぶっさんも劇場の住人だ、バイバイ、実存。残されたのは性感帯だけだ、終わらない日常の中で射精を夢見てるだけだ。ノートに名前を書き続けるだけだ。そして劇場の舞台の上で射精し、革命を起こすだろう。
性感帯の発明?
ただ一箇所の愛撫でイクことを覚えること?
舞台を用意し続ける何かを殺すこと?
ファック。電波やべ。
まあ宇野のオセッカイ系っぷりは真性なので妖怪人間は自分が用意した快楽を動物に楽しんで欲しくてそれを自分の快楽へと転移させたい欲望を持つ変人という結論だったんだけど。あずまんに「宇野って結局どうしたいの」と問われたときに言葉に詰まるのが印象に残ってしまう。オタクに現実の女をあてがうのが目的って開き直ることもせず、矢作は自分のための快楽みたいだし、そこでラブワゴンへの回路を開かないからクドカン程度で文句言われるんだよ。トライブ厨なんかそれが出来てれば黙るよ。その断絶を何とかせーよ。矢作論がものになるかどうか分からないけどそん時に乙木が「新たな知の塹壕」とか言ってヨイショしたときラブワゴンの残骸をどうするつもりだ。矢作をラブワゴンへの切符にするのが10年代への課題だな、宇野的には。でもしたくないんだろうな、和姦ファンタジー的な意味で。ずっとあの調子だと来年くらいには若いライターに「宇野常寛問題をどうにかしたいッスね」とか言われるよ。もしくはゼロアカ生徒あたりに。
小さな成熟を乗せて日常をひた走るラブワゴン、いつか走れなくなるその日まで、終わりを見つめて。
虐殺器官貶すとき引き合いに出すのがライフ、これが宇野さんの快楽を象徴しているような気がする。マジでそういうとこにしか興味ねーんだな。それがダメとかいうんじゃなくて三十路の社会人としての審級とそれに至る回路の段階の話。
なんだこれ