ポスト京アニとしてのドルアーガの塔

現段階において、いくらかの怠慢といくらかの不幸において京都アニメーションは停滞を余儀なくされているがそのような状況の中でドルアーガの塔はささやかな慰撫と熱狂をアニメファンに感じさせてくれる。京アニという固有の名詞、とりわけハルヒという名詞のイメージを色濃く漂わせながら。
単純に賀東招二千明孝一の名前だけで京アニという言葉を連想したとしても問題はあるまい。ゴンゾによるフルメタの第1期という事柄が存在する事実だけで作り手にとっても受け手にとっても京アニを連想させるに充分すぎるだろうし、あるいはその名前がなかったとしてもドルアーガの塔にポスト京アニと言いたくなるようなイメージが作品のそこかしこに埋め込まれているのが認められる。より厳密に言えば、ハルヒを作った京アニに期待されたもの、そういった漠然としたイメージが。おそらくそれは賀東招二の脚本に還元されるものだろう。賀東による京アニ作品の脚本の仕事がドルアーガの塔に与えた影響という意味では。思い返してみれば、京アニに期待されたいくらかのイメージはすでにドルアーガの塔の前シリーズで形になってはいなかっただろうか?わずかな媚びを含んでいなくもない受け手への目配りや逸脱には至らないであろう構成、ユーモア、宣伝方法。そして作品を貫く工芸品めいた手触り。ハルヒほどの完成度はないがそのハルヒもどちらかといえば高性能のマシンのようなイメージを抱かせる画面だった。金と時間をかけてわざわざ作られる踊るロボットのような?賀東招二自身のライトノベルのような?隠喩としてのハレ晴れユカイなどと言ってしまえば言葉が過ぎるだろうか。だがこの文章にどんな意図もないし思いつきで書かれたものだ、どのような言いがかりも許されるだろう。これからの記述も然り。
OPは前作の流れをそのまま引き継いだような形でキャラクターたちが本編とは無関係な文化祭の描写と野球シーンにおいて描かれる。これだけでハルヒを連想するのは言いがかりだろうか、媚びに隠された反抗やハルヒへの愛憎だと読み込むことも?。前シリーズで一度終わった文化祭。登場人物たちのそれぞれの祭りのあとが暗さを帯びつつも魅力的に描かれ、しかし祭りを忘れられずにいることが示唆されることも?。新たな導きの中で仮面をとったキャラクターがいることを強調してもいいだろう。そしてED。折笠富美子の可憐な歌声は今は置こう。次のように歌いだされる。

魔法使いですけど 出来ないことあります 本当の気持ちとか うまく伝えられませんし

引用はこれだけで足りるだろう。OPで仄めかされたハルヒの引用がここで決定的となり、魔法使いを神と言い換えれば換骨奪胎は完了する。これ以上の記述は野暮というものだろう。超越性を自覚して旅立ったはずのヒロインともう一方では主人公をベッドに起こしにやってくるヒロイン(堀江由衣折笠富美子の声優性を検討するのも楽しいだろう)というアクチュアルな配置もあるが、テクストはどんな読みも許されるはずだし、このような記述を興ざめだと感じる人もいるだろう。ポスト京アニがテーマなだけに。
筆が滑った。いや、筆が足らない部分も多々あるだろうがハルヒ以降の京アニ作品の停滞に不満を感じているファンならドルアーガの塔は見逃せないはずだ。ハルヒ的な主題を継承しつつアニメ然とした華やかさと騒々しさを画面に叩きつけた第1話は必見である。