空を見上げる少女の瞳に映る世界と太宰、そして三島。

ムントが見るものにまず与える印象はその驚くべき鈍重さだが、それを超えてはっきりと退屈だと思えてくるのはイメージカットの陳腐さとモチーフの進行があまりにも強調されすぎているせいだろう。ドラマの中で進行する主題、登場人物たちの背負うイマージュがあまりにも露骨に画面の中で展開されていく。彼ら彼女らが登場人物という域を超えてイマージュと同化しつつあるといってもいいほどに。今のところその同化はユメミとムント、スズメとカズヤの対比に現れる。物語の重力は現実界?側でのスズメとカズヤの結婚といういささか強引な言葉に表象されているが、これは言うまでもなく後のユメミとムントの異世界人間の聖婚のイメージを物語に召喚するためであろう。少しだけ踏み込もう。ムントが文学なのはスズメとカズヤの結婚、その婚礼の儀式においてこそあの二人は文学なのである。川を二人で渡りきろうとする、その行為そのものが文学なのである。
ここで唐突だが太宰治三島由紀夫の名を想起しよう。入水自殺で有名な、あるいは切腹という行為において有名な文豪達の名を。自意識過剰な少年が一人の少女に救いを見出し、自殺を試みた川のイマージュを象徴として打ち払うというあまりにも露骨な儀式と行為。画面から感じられるのは切腹したあとに腹からはみ出す腸のような、太宰や三島の遠い引用を経た、登場人物のグロテスクなまでの主張である。(押さえ込まれる内臓の隠喩としてカズヤのTシャツがズボンにインしていることを指摘することは深読みだろうか。)

生きようと私は思った。

三島の代表作である金閣寺の最後の一節である。スズメとカズヤもこのような境地に行こうとしてるのだろう。金閣寺で語られる行為と認識、これはおそらく日本人の文学という言葉に対するイメージを端的に、そして何より大衆的に表している。おそらくは、漱石から現代までずっと。お望みなら現代を邪気眼ケータイ小説と言い換えてもいい。金閣寺の放火、邪気眼的行為、ケータイ小説的認識こそ現代における文学なのだ。残念なことに?喜ぶべきことに?恐るべき中二文学の復権を目指す、この太宰、三島的な、あまりにも太宰、三島的なアニメを俺は
2話で切りますw。あまりにもつまらなすぎるwww。京アニwww。