破、三回目

三回劇場に足を運んでようやく?素晴らしいフィルムであるということに確信が持てた。新劇場版における認識論としての二次創作、といういささか平凡な肯定、あるいは否定の感覚の中で、死海文書の二次創作としての黙示録だなどと戯言めいた言葉が浮かびもした。
「序」の段階ではそれほど散見されなかった新劇場版に対する懐疑的な論調(俺も序はそれほど熱心に見ていなかったしネットで感想を漁ることもしなかった。)が目立つのは「破」は映画論的あるいは説話論的に観ると物語の構造それ自体が陥没しているからだろう。「エヴァは新劇場版しか観てません」とか「旧エヴァは興味ありません」といった人はおそらく置いていかれるだろうし、優越感ゲームのプレイヤーもその脱臼された構造ゆえにハマれないし語れない。
ヱヴァで描かれる(とりわけ破での)「世界からの陥没」はいささか捩れた感情を観るものに抱かせることになる。クライマックスでしゃべりすぎだとされてある種の人々から失笑されつつも「人に戻れなくなる!」というリツコの台詞が強調するようにヱヴァにおいてはパイロットとエヴァの融合こそがこの世界からの陥没を象徴しているのだが、例えば劇中でアスカに訪れた悲劇はアスカ自身があるひとつの陥没から脱出したまさにその時、ささやかな恋愛と友愛を経て「そっか、私笑えるんだ」と呟いたその瞬間、誰に見られることもない、もしかしたらこの世界そのものに向けられたかもしれない微笑みを彼女が自身のものとして受け入れたその瞬間、使徒に侵食されてることによって描かれる。そしてエントリープラグの中での一連のシーンはイヤでも旧劇場版を想起せずにはいられない。背中から光の束が天使の翼のようにアスカを押し出し、旧劇場版のサードインパクトにも似たレイの笑い声とともに十字架のような光の粒が画面を覆う。言うまでもなくその後の『今日の日はさようなら』とクライマックスの『翼をください』が置かれたシーンは背中合わせとなっている。アスカの微笑とシンジの決意は同じ「この世界」の陥没からの脱出の際に「この世界」へと向けられた眼差しである。ゆえに彼らは必然的に、運命を仕組まれた子供たちとして特権的な地位を得て「この世界」の中で宙吊りになる。だからアスカは使徒と半ば混同されながら貴重な堕天使のサンプルとして扱われるだろうし、シンジとレイを取り込んだ初号機は天使として凍結される。「そっか、私笑えるんだ」と「世界がどうなったっていい」というふたつのテーゼをともに飲み込む残酷な「この世界」に果たして帰還する価値があるのだろうかという問いが、とりあえずはQの課題となるのだろう。人間が天使になろうとすることの是非。残酷な天使のテーゼ
そしてここにクリント・イーストウッドが監督した『チェンジリング』という作品を呼び出そう。詳しく記述するのは面倒くさいので控えるがこの作品のなかで連続誘拐殺人事件の犯人が物語の終盤で絞首刑になるシーンがある。その犯人は13階段を登りながら何の前触れもなく『きよしこの夜』を口ずさむのだが今回ヱヴァを観てそのシーンをふと思い出した。絞首刑だということは当然、その社会の制度のもとで裁かれたことになるのだが、この犯人もまた「この世界の陥没」=殺人鬼としての自分にはまり込んでいて、そこからの帰還を社会が定めた法的措置による絞首刑という形で描いていると説話論的には説明が可能なのだが、例えばマリの戦闘狂という極めて特異な属性を与えられたキャラクターをこの殺人鬼と同じ陥没に陥らせることもできるだろう。マリはたいていの殺人鬼と同様に!「この世界」への帰還をおそらくは望んでいないしその陥没の中で飄々と生きている。シンジ、レイ、アスカが文字通り使徒と融合することによって天使的な存在として表象されたことと同様にマリは使徒と戯れるように戦うことで自身の天使的なふるまいを可能にし、そして「この世界」はその残酷さのなかでマリを残酷なまでに容認するだろうし、この在り方は先の3人とは異なる残酷の中を生きることになるだろう。
旧劇場版のようなキチガイじみた狂乱も自意識の秘密も世界の謎も希薄だが「破」はこの世界にあって「当然」の残酷さゆえに、極めてリアリスティックな黙示録だということもできる(生きることに悩んでいなくともこの世界からは何らかの干渉や阻害めいたことはある。)。だが注意深くみていけば、「破」では後半になるにつれて旧エヴァへの接近が強まっていくのが分かる。それは狂気の有無といった曖昧なものではなくてコンテやカットの踏襲で旧エヴァをふまえた場面が多いというだけのことだが。もっとも象徴的なのはシンジがマリに「いじけていたって何もいいことはないよ」とさほどの関心もなさそうにたきつけられて精液めいた白く濁った廃墟に晒されたシーンで手のひらについた二号機の赤い血を見るシーン。アスカの二号機から出た血!病室でオカズにしたアスカの!あの病室もやたら白く濁っていた!でもアスカじゃない女が乗っている!というふうにむしろこういうシーンにこそ庵野が作ったフィルムとしての、オリジナルとしての価値を見るべきであってループとか二次創作だからダメとかほざくアホどもはヱヴァ愛が足りないね。何が産業だよ、インダストリーとか言い換えてんじゃねえよ。キャラクタービジネスだと?お前はあのフィルムに焼き付けられた閃光が見えないのかよ。二人の男友達もてあそんだり叔父が初恋とかビッチすぎてお前の映画のヒロインじゃビジネスできねえんだよ!
……すんません取り乱しました。
キャンパスにエヴァがあってそこにヱヴァを上書きしているのでエヴァが浮かんでくるといった感触のほうが近い。赤い海と青い海とかさ、白い精液と赤い血とかさ、メシウマだよね。使徒のあの大量の血液ってマジ神話的だよね〜十字架爆発とか。エヴァに人生狂わされた人間だからこその奇妙な体験があったのは間違いないじぇ。