毎日が世界内戦です。

最近思いついたネタなんだけど、というかコレ読みながら思いついたのですが、アトラクション型の体験とアトモスフィア(空気、雰囲気、状況)型の体験のようなものがあって、テクストとかコンテンツとかがどのように読まれたり見られたり体験されたりするのかはその受け取る奴の数だけ存在する。というなんか当たり前なことをコレを読んでて思ったんですよ。ちなみに僕はコレをアトラクション的な読書として体験したのですが、個人的な好みはアトモスフィア寄りなので、「ああ、ドーリーミングなライトノベルだ」という、言うなれば、醒めながら遊園地のジェットコースターなり観覧車なりというアトラクションに乗ってたわけです。
で、アトモスフィア型というのはイメージとしては「世界感覚」とでも言うのでしょうか、作者の世界観と受け取る個々人の世界観にフィットしているように思えるモノに寄り添ってそれと格闘したり戯れたり、みたいな。分かりにくくてすいません。それらは体験されながらモザイク状に理解されていくことになると。

んで、この小説なんですけど、売れてるし、ラノベ読みの評価も高いけど、めっちゃ普通なんですよw 屈折とか逸脱とか、そういうのとは無縁で、まあ最近流行の祝祭型読者共同幻想論的なハーレム志向の作品なんだけど、それにしてはエロ成分が少ないし、一人称の「俺」で綴られるヒロイックなポエムはもうシリアスな笑いの域だし、テンプレなヒロイン像でキャラクターっぽさが希薄だし、倒されるためだけに出てくる物語駆動型悪役だし、という仮想世界ファンタジーで、ぶっちゃけ「ねーよw」と言いたくなるんですが、俺ももうアラサーだ。そんなSF経由でラノベも読んでます系のムダに偉そうにする学生みたいな真似はしない。

「これは、ゲームであっても、遊びではない」という意味があるのかないのか判別しがたいフレーズがこの小説世界を決定付けているわけですが、これは茅場晶彦という物語駆動型悪役のセリフで、1巻でこの人の仕掛けた事件(1万人を仮想世界から目覚めさせなくする)は主人公の大活躍により終了っぽいんですけど、4巻の終わりでこの人がデウスエクスマキナっぽいポジションでいきなり出てきて問題ありまくりの仮想世界を魔法のステッキで「アリじゃね?」みたいな流れになるんですよ。俺は戦慄したよ。何千人このゲームで死んだんだよ、どこの大量死だよ、そこまでしてネトゲ万歳かと。なんというか、ここでは大量死に対する一種の衝突が確認されるんですよ。戦争で死ぬことのリアリズムとネトゲの事故で死ぬことのリアリズムの衝突!この屍の山の上に築かれたアトラクション!

たぶん、そういうゲーム最高ゲーム万歳的な世界感覚を作者は持っている、そのように考えられる。

全能感というアトラクションを楽しむ願望充足系ライトノベルに紛れ込む作者のアトモスフィア。そういう小説が本当に可能なのだろうか。読む者は、それらが「書かれたもの」であることを知っている。この小説は、仮想世界で英雄になるごく普通のイケメンな少年の物語だ。そしてその仮想世界での英雄っぷりは作中の現実側にもフィードバックされる。果たして、仮想と現実とは一体何なのだろうか。現実のために仮想というアトラクションが欲望されるのだろうか。問いが置かれる。

アトラクション型とアトモスフィア型というのは意外と使える気がしている。後者は基本的にうざいんですよ。でも一部の人種には求められるし、ありがたがられる。例えば基本的にショッピングモール(思想地図)ってアトラクションじゃないですか?でも自分が持ってる世界感覚でショッピングモールを思想したりするやん?例えば基本的に文学のロマン(佐々木中、市川)って小説のアトラクション性を軽視してアトモスフィアな文学を追求することが素晴らしいのだって感じやん?例えば世界内戦(限界)は戦争や革命のイマージュとアトモスフィックに格闘してもアトラクションっぽいワクワク感がなかったりするやん?というように。

まおゆうとかはどうだろう。マネージメントとアナーキズムか。いや、対応するのはアナーキーではないな。管理設計啓蒙に対応する言葉ってなんだろう。よくわからん。や、アトラクション型とアトモスフィア型にしても別に対立させているつもりはないのですが。

文学とか思想とかって慰み物(サプリw)でしかないというのが、売文業でない人間の感覚だと思うんですけど、でもそれで食ってる人にとっては語られてる内容がどんなものでもリアリズムになるかもしれません。でも、書かれたり作られたりしたものは、サプリにならざるを得ない。佐々木中をサプリにしている人がいようがいまいが、思想地図をサプリにしようがしまいが、この2つの島宇宙を行き来しようがしまいが、作り手が「これはサプリではありません」と宣言しようがしまいが……。
たとえば、そういった今の状況をアトラクションとしてプレゼンするのがまおゆうや至道流星作品などではないのかと。世界変革系なそのスタイル。それらが提示する世界感覚は「世界を変えるということは遂行可能なひとつのミッションである」と理解させようとしているのだ、と捉えられるかもしれません。その世界感覚が本当に、誰に、どのように信じられているのかという問いは置いて(必要悪、必要善)。そして「世界は変えることが出来る」と、この世界を理解する、その恐るべき実務家たちが遂行していく華麗なるミッション!

東京から考える、という本があり、ショッピングモールを思想する本があり、考えられたり、思想されたりしているものがいずれは「変える」という世界感覚に「似ていく」ことになるのかもしれません。作家から東京を変える政治家へ! もちろん知識人という考えることが仕事になることもあるのでしょう。

そしてカンピオーネ!

カンピオーネ! 6 神山飛鳳 (スーパーダッシュ文庫)

カンピオーネ! 6 神山飛鳳 (スーパーダッシュ文庫)

カンピオーネ! 7 斉天大聖 (スーパーダッシュ文庫)

カンピオーネ! 7 斉天大聖 (スーパーダッシュ文庫)

カンピオーネは世界内戦です。
科学と魔術が交差するとき、僕の日記が始まる。科学サイドのソードアート・オンライン、魔術サイドのカンピオーネです。
いや、こっちはおもしろかったです。科学サイドの方はあまりにストレートに「これからこれとこれをやります」なテクストでそこがアトラクション型だと思った要因でもあるんだけど、なんとなく同じカテゴリに入れていたカンピオーネのほうが「ちゃんと」している。いや、違うわ。こっちのほうがちゃんとしていないんだw。つまりこっちのほうが「ライトノベル」している。少年漫画っぽくバトルがあり、エロがあり、アトラクションで楽しませつつ、明確な世界感覚がない。しかし物語上で隠されるべきものが隠されていて、どこにどのような着地をするのかは伏せてある小説。それが読むときのwktkにつながるのも当たり前である。神話伝承のアトラクション化も適度に下品で、それが心地よい。一方ソードアートオンラインのテクストには奇妙な慎みがある。その慎みがヒロイックなポエムと相まって苦笑いを呼び起こしたりもするのであるが。
キャラクター度の高さ、ストーリーテリングに割かれるリソース、書かれているものに対しての自覚性。上下巻二分冊でページ数も似たようなもんと考えれば同じアトラクション型でもカンピオーネのほうが満足度は高かったです。といってもカンピオーネも若干「どうなんだこれは」と思うところがないでもないけれど。
ソードアートオンラインカンピオーネは広義の現代異能(バトル)モノとして、「似たような」欲望が描かれていると言ってもいいと思うのですが、前者の欲望は、誤解を恐れずに言えば一般文芸にも「似ている」のです。用意される恋愛感情も、悪役も、そこでは極端に誇張されてはいるが自然主義的と言ってもいい程度の愛情と悪意で物語は綴られている。保守反動とすら呼びたくなる、その無味無臭の世界感覚は読者を穏やかに安らがせることになるだろう。
そしてキャラクター小説の嫡子的なテクストのカンピオーネは巻数が進み、奇妙な欲望が描かれるようになってきた。主人公とそのハーレムは一種のパワーゲーム(ヒロインたち)とマネージメント(主人公)の中でその関係が語られるようになる。主人公はその権力的な偉大さでもってヒロインたちを自らのものとし、彼女達を使って物語を駆動させ、ヒロインたちは互いに切磋琢磨し主人公の欲望を宥め賺し、時には彼の欲望を管理できないことに苛立ちすらするのである。そのキャラクターたちの態度は、あの恐るべき実務家たちに「似ていく」ことになるのだろうか?

世界を変える、好きな人を変える。それらが接続される。セカイ系とは何か。

まおゆうや至道流星作品はおそらく世界そのものを欲望する。そのあまりに雄々しく壮大な欲望。そして、しかし、ヒロインたちがもし主人公の欲望をマネージメントしたいと思ったら?それらは彼らの雄々しさと並ぶ。そして女々しく?卑小な?ご冗談を。そんなわけがない。カンピオーネの主人公は設定上まさしくあの世界の「魔王」であり「勇者」でもあるが彼は世界を欲望することはない。それがおそらく作者の世界感覚の発露であるだろう。「魔王」と「勇者」、つまりはこの世界の「闇」と「光」。それらが結託し、この世界を変えようと欲望する。そして、典型的男性上位型のハーレム願望をアトラクション的に体験させながら、しかし雄々しい世界への欲望は感じさせない。そのようにして異なる世界感覚はお互いの「似ている」欲望を混乱させる。

世界をより善きものへと。その「驚くべき」欲望。そのために遂行されなければならないミッションを自らの手で成し遂げたいという欲望。というような話を数日前にしたようなしなかったような。

http://togetter.com/li/80754 世界内戦とは何か。ちょっと考えてみて、この世界はずーっと世界内戦状態だよなあと素朴に思った。なんでしょ、誰も彼もが「現実と格闘しているw」この今の状態の世界が世界内戦という状態なんだと、そう思っている。それなりに長い期間の時代性、現代性、今のところ、『エヴァンゲリオン』から『進撃の巨人』くらいには当てはまりそうな、そういう時代性を持つ、この状況、雰囲気、アトモスフィア。
そのアトモスフィアと自分の世界感覚が出会ったときに何が生成されるのか。それはどのようなものと「似ていく」ことになるのか。

ショッピングモール爆発しろ!とアトモスフィアによって欲望され、そのように考えながら読まれる思想地図のように。サプリメントではなく、劇薬として読まれるテクスト、おそらくはそういったものが欲望されている。そしてショッピングモールに脅威を感じ、しかし爆発を欲望できない人を安らがせるテクストも。それらはソードアートオンラインカンピオーネが似ているのと同様の意味で「似ている」のだ。

あの人とあの人は似ている。あなたと私は似ている。

「君のエクリチュールが知りたい」