信用できない

たとえばドッグデイズは異世界召喚されてなんか大活躍で美少女いっぱいでワッフルという勇者系(番宣CMで自称)の話ではあるが、やつらはほぼ全員がアスレチック脳筋バカであるからして、そこにはある種の自意識からの逃走経路の存在が認められる。
たとえばドッグデイズのフロニャルドソードアートオンラインアインクラッドという異世界の描写の差異、背景美術や成立の理屈、描写のユーモア、アクションシーンのエフェクトなどをとっても、ドッグデイズはアニメとしての自意識が強すぎる。アニメであることを自覚しすぎている。
一方ソードアートオンラインはそういったアニメ的な自意識をほとんど持たない。そっけなく曖昧な異世界の描写、派手なのは剣の名前だけでイマイチ迫力のない地味な剣戟シーン、機能しているのかいないのかよく分からないSF的なガジェット操作の頼りなささえもがそこで優位性として立ち上がる。それはデスゲームの中での真実の囚われを補強する。アインクラッドではエネルギー弾を放ったり、高速で空を駆ける必要はない。ある程度の切実さと、ある程度の悲壮さと、ある程度の現実離れくらいのもの(ごく自然な雰囲気で頭を撫でたり撫でられたりするくらいのもの)で事足りる。そういうものがあれば、冒険して恋に落ちてもかまわないのである。そしてその恋愛のドラマ性を支えてくれる程度であればよい。人のよさそうなオッサンはキリトをピンチにするためだけに物語に関わり、理不尽に死んでしまう。だがそれがなんだというのだ? ちょうどいいスパイスである。キリトは優れた才能を持つが対人関係に難を抱える孤高の黒い剣士であり、アスナはお姫様扱いを受けつつ剣士としても優秀な最大派閥組織の中心人物である。まるでファンタジーではないか。しかしそのような自意識を少なくとも作中の本人たちは持つことはない。
まるで周りのことなど考えないこと。そのように振舞うこと。それこそが若者の特権の一つの側面ではあるだろう。川原礫の安っぽい人間観と世界観はユースカルチャアの本質的な野蛮さに肉薄している。