漠然と考えていたのは、ハードボイルドになろうとすれば、おおまかな意味においてコミュ障の個人主義者になってしまうくらいのイメージだったのだけど、ウィキペディアの年代別のざっくりとした説明を見る限り、その考えは間違ってもいないけど正解でもなかった。
超人願望とかも視野に入れなければならない。禁欲的だったり、他者を戒める特権のような美学が、時にはあまりにも無様にだらしなく作用してしまうという。
あいつらはほんと他人とツルむことをしないっぽい。ミステリ小説としての形式とは異なる位相の中で、オッサンたちはとりあえず自分で何かをどうにかしようとする傾向が強い。
記憶にあるのは大沢在昌のインタビュウで、謎解き探偵は傍観者でハードボイルドは戦うための小説で、みたいなこんなざっくりとした言い方ではなかったし、特に鋭い見地なわけでもないけど、まあ言いたいことは分かる。何事かがあったときに主体的に行動するくらいのイメージで充分だろう。
60年代になるとアメリカのハードボイルドは社会問題に個人が対処しきれなくなっていく、という記述がウィキペディアにはあるんだけど、そんなもん普通に考えれば一人のオッサンが「タフでなければならないんだ」(キリッ、とかかまして世の中の問題をファックするなんてことは馬鹿馬鹿しいことこの上ないので、単に個人の自意識とのバランスを調整する作業に移っていったのだろう。せいぜいが都会で起きる殺人事件にタフな探偵が関わるっていう今の現代的なハードボイルドイメージはそういう調整があった上で成立している。まあそういうのもパロディめいているけど。たいていの場合は天邪鬼の頑固ジジイにしか見えない。そういうコミュ障のスタイルが確立している。

日本は戦後になってからそういったある程度カリカチュアされたイメージの流入があった。日本独自のイメージが成立し始めるのは大藪春彦あたりで、僕は2冊くらいしか読んだことないけど、肥大した自意識と童貞的幼児性を湛えた誇大妄想な作風で、まあ今現在のラノベハードボイルド一派の先祖的存在になるのでしょう。この人はまだ自分には戦う理由があると信じられていた時代の作家で、もう理由がなくなってほとんどポーズだけのハードボイルドで高度資本主義を生き抜くやれやれ系の村上春樹がいて、それらの悪魔合体的な魔法科高校の劣等生は、なんかもう悪い意味で後期近代の鬼子って感じで必読ではある。改めてそういうことを意識して読むとほんとすごいんだよ。何らかのポーズを取ろうとするあまりに主人公の描写がピーキーに空回りしまくってて「え? ここでそういうことを主人公の内面として書くのがかっこいいと本気で思っているの?」と常に思わされながら読むことになるんですけど、まあ単なる創作技術としての未熟さと失敗ゆえにそのように読まされている部分もあって、批評として語るとここ最近僕が感じている電波系の読みになって、後者だといわゆる面白主人公、テニプリ系の嫡子になるわけですが、それは読者側の消費スタイルの話で、作品の表象とは別問題。基本的には川原、佐島は韜晦らしい韜晦を排除しながら書いていて、自分の書いている物語が達成する目的とそのための手段が正しいのだと信じて疑わないってなモードで書いているように読めるので、そこの自意識のおぞましさに僕は惹きつけられるん。

検証する暇はないんですけど、個人主義ハードボイルド美学って僕の実感としてはいわゆるユースカルチャアではないので、なぜライトノベルという領域においてはそういったオッサンの美学が天下を取るようになってしまったのかという疑問が単純にある。少年漫画の領域では自分の自己顕示欲の上昇気流に他人を巻き添えにして踏み台にするような作劇はまずありえないにも関わらず、騙まし討ちや裏切りや選民思想のようなものを内面化しているかのように読めるキャラクターたちを賞賛の中で表現しているサバンナが形成されている、というのが今のところの彼らに対する見解ではあります。それに対して何か道筋をつけたくて最近電波受信して近代がどうこうとかほざいてるわけです。そんな大風呂敷をラノベの数人の作家に回収して何がしたいんだって自分でも思うけどな(というか、近代的な主体の遍歴として求められる人物造詣の最新型が本当にそのようなものであるのかという話なんですが)。
でもしょうがねえよ、自分の身近(ラノベ)にあるわけの分からない他者があいつらだからそれを分かろうとするときに自分の中のこともある程度確認しなきゃならないからね。「あいつ性格悪いな」ってだけではだめなんだよ。あとはやっぱり自分の身近にあるものの中で売れているからで、SAOなんか、アニメの出来は大したことなくて、まとめサイトステマ系でもなく、ブヒリズム系としてさほど優れているわけでもないのに(アスナ人気はすさまじいようですが)、オリコン見たら1巻が40万部超えてて、今でも全巻売れ行きは衰えてない。ここまで原作が動いたのってハルヒ化物語シリーズくらいの印象だし、しかもその二つはアニメの圧倒的なおもしろさに支えられて原作にまで人が流れたはずで、でもSAOではいったい何が起こってるのか分からないんですよ。

実態としてはおそらく9割くらいは安いヒロイズムと願望充足をうまいことパッケージングして商品として流通させたんだろうなっていうものなんですけどね。残りの1割を使って人間について考えたいねw なぜある一定数の割合の人間達はそのような激安ヒロイズムを英雄譚として語ってしまうのかという。80年代あたりに優れた冒険小説を書いていた作家達が時代小説に移行するときにはある種の近代的な人間像への不審とか行き詰まりのようなものがあって、90年代00年代とかに育った世代はそういう行き詰まりに目をそらしながら英雄になろうとしているのでいかにも激安な馬鹿馬鹿しい超人が英雄として語られるのかもしれないというのが書きながら考えたことです。単なる男性のためのファンタジーとか、あるいは子供の読み物として片付けようにも奇妙に邪悪なものが内面化されているからね。残りの1割で。むしろ自分にとってあの超人たちがファンタジーとして機能しないのでムカついているだけかもしれないw
今の状況ではほとんど無意味な検証ですけどね。ツイッターで皮肉交じりにちょっとうまいこと言って馬鹿にしながら次の潮流が来るのを待ってるみたいなのが一番コスパがいいと思う。現代的な激安人間としてそれが正しいw