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よーし、パパネットで調べたことを元ネタにして小説を書いちゃうぞーと魔術のことネットで調べたベストセラー作家の真似をして馬鹿にされようかなって思って色々関連ワードをググって講談社ボックスのゆずはらとしゆきインタビュウにたどり着いたんですよ。そこでは「思春期の超人願望においては弱者を嬲り殺しにすることが最大の快楽になるんだ」というのが分析的な発言としてなされていて、さらに続けて「ハードボイルドの方法論はそういう快楽原則から導かれるものに対して超人ではない普通の人間として自問自答することから始まるんだ」っていう趣旨のことが言われていて、ふむふむったわけなんだけど、昨日書いたようにチャンドラーのタフネスと佐島主人公の超人願望って地続きだなっていうのが昨今の私のハードボイルドに対する印象であり実感で、その自問自答のハードボイルド美学は理念においてのみ存在が許されているのではないかと思ったんですが、さっきまで見てた仮面ライダーウィザードでは弱ってしまった超人と彼を崇拝するヒロインがその超人性から離れた場所で周りの人たちに影響を与えて、与えられて、うまく着地する話をやっているのを見て感心してしまった。話自体はわりと当たり前のポジティブ系の規範に落ち着くんだけど、いざ創作せよってなるとなかなか出てこなかったりするんだよね。現代でヒーローの話をやろうとするとたいてい馬鹿馬鹿しいことになるっていう。ライダーは無職多すぎっていうネタツイートを何日か前にみたんだけど、そういうのも踏まえて、現代でヒーローになるのは難しい。やはりネット小説系が最強か。(違
いやまあ道徳の教科書みたいな規範で書かれるラノベが多いってのも前思ったし、でもなぜハードボイルドは個人主義でコミュ障で、それが成熟した男性像として捉えられて、ハーレム系で道徳の授業を始めると「切り込んできた!」とかよく分からない達成が果たされて、川原・佐島においては本命ヒロイン固定してる成熟ハードボイルドですよとしながらも道徳の授業ではありえないような他人を貶め、嬲り殺しにするのかっていう。
「絶園のテンペスト」はのっけから道徳や規範から逸脱していてそこに自意識をライドオンしないとノレないからいわゆる本格ミステリの人間が描けてない批判とかも似たようなもんだと思っているけど、ノレなくてもああいう想像力は擁護しないといけないのかもしれないなって思いました。思春期の超人願望ハードボイルドは普通はコミュニティに回収されるけどそれができなかったケースもあるし、そのヒロイズムの発散の仕方も少なくとも激安だとは思わないし、少年漫画のロマンの一つとしてありかなあと。SAOとか劣等生もシェイクスピア引用しながら他人を嬲り殺すとか、そういうのが始まると面白くなるかもって思います。アスナが死んでしまって「世界の間接が外れてしまった」って言いながらキリトがネトゲで無双したりするといいんじゃないか。アスナはデータとしてなら残ってるぜ、みたいなやつ。でも川原は不思議の国のアリスでさえもキリトのヒロイズムに屈服させてるからな。やはり最強か。
ハルヒや俺妹やはがないやそのフォロワーにいたるまである種のコミュニティからの阻害と参画とその拡大が描かれるんだけどこじらせやれやれ系から道徳の教科書的なロマンにノリながらそうじゃないフリをするっていうのも脛を蹴られても鍛えてるから大丈夫マンの美学と似た構造になっていてやはりハードボイルドが培ってきた近代的男性像の謎であるなあ。
そういえば銀魂があるのを忘れてた。アニメ版は最良のハードボイルドなので、くるべきハードボイルド論のために視野に入れておかないと。