ガルパンおもしろい。だらしなさ全開ミリオタファンタジーのくせにおもしろい。なんで男の子がいないとアニメはおもしろくなれるんでしょうか。
1話がこの内容で、でもこの舞台設定でどういう転がし方をするのかは楽しみですね。バンドが4つくらいあるけいおん、という中で主人公バンドとそのほかバンドのキャッキャウフフならメシウマかなあ。戦車はわりかしどうでもいい。
しかしこう、この圧倒的ファンタジーの内部に置かれる少女達のごくごく当たり前の人間的感情が眩しいね。リアリズムからの乖離があるからこその眩さで、今期の少女マンガ原作のいくつかは、一定レベルのこじらせや卑屈さから出発しているように思えるけど、こっちはファンタジーであるがゆえにリアリズムの卑屈さから自由でいられるという。
となりの怪物くんや好きっていいなよの場合、その最初の待機状態からイケメンとの接触において自分が変わること(変えられること)によって世界も変わるメソッドを採用して、一方でたとえばけいおんの最良の瞬間とかは自分達の持つ輝きに含まれる連続性の一つとして世界そのものを巻き込みながら肯定していく瞬間があって、ガルパンにもわずかにその片鱗がある気が。ギターが戦車になるというのはあらゆる意味で退行してると思いますが。実務家たちの仕掛けるオタ漁船はまあそういうものでしょう。
作劇としては友達になったばかりの奴のために部活に入ろうとしたり入らなかったり、その友達になったばかりの奴らに心を動かされるというリアリズムへの反逆は、けいおんの進路に対して鼻息を荒くしていた類の連中を苛立たせるものと同種ではある。ほとんど追い詰められてようやく決心する姿は哀れみを感じさせもするが、アイスを食べさせあうシークエンスにその哀れみを巻き込みながらも友達の勇気を支えようとする優しさがある。
世界精神。ダークナイトのジョーカーの世界精神は私達が本当はこう思っている、こう考えている「であろう」ことをフィルムの上で見せてくれる。そしてけいおん平沢唯の世界精神もまた私達が本当はこう思っている、こう考えている「であろう」ことを見せてくれる。ガルパンのキャラクターの世界精神においてはさつまいもアイスの食べさせあいが部活の選択よりも大切な瞬間として位置している。
世界というものが革命されるに値するほど至らない、愚かな、退屈なものだと考えている場合はけいおんがただの夢想であり幼稚なユートピア願望に見えることだろう。たとえばまどまぎを巡る退屈な議論の多くがそのような革命されるべき世界の退屈さを確認させる。その世界への諦念が見るものと語るものへと伝染し、徒労に満ちたため息を漏れさせる。まどかの奇跡によっても変わることのない世界の退屈さに対する誠実さがため息を漏れさせる。人間に対するあきらめと世界に対するあきらめに浸りながら自慰行為にふける誠実さ。現実なんてしょせんそういうもんだろうという誠実さ。世の中の悪意をなかったことにしないという気取った冷笑としての誠実さ。まどまぎが提示する作劇とその中での感情の諸要素は激安の出来損ないの人間性において繰り広げられる茶番でしかなく、SAOのキリトが言う「もし俺が死んでも、アスナが自殺できないように取り計らってほしい」という対象への徹底した矮小化において提示されるヒロイズムとほとんど同じ種類のものである。まどまぎにおいては「たとえ私が奇跡を起こしても、エントロピーが残って魔獣が存在する世界にしてほしい」というわけである。そこでは人間や世界がその程度にしか信じられておらず、ゆえにそこで起こされる革命も奇跡も魔法もその程度のリアリズムの範疇に収まるような現実に対する冷笑に留まる。自分達の行いは全てその一個の事件だけに回収されて(数千回数万回のループという一つの事件)、その輝きは世界へと伝わらず事件の当事者たちの慰めにおいてのみ発見されるようになる。ヒロイズムは世界から遠ざかり、または世界から阻害された状態によってようやくヒロイズムが発見されるようになる。あらゆるものを冷笑から発見するニヒリズムは現実としてひとつの規範として私達の中に巣食っており、しばしばその冷笑がリアリズムとして実感される。努力や情熱や積み重ねた時間が世界とは一切関係のない場所においてようやく発見される。「絶望で終わらせたりしない」私達はこういう当たり前の事実を感動的だと感じさせられる。それと同時に、お互いが積み重ねた時間を世界との連続性の一部として置こうと同じ大学に進学する者たちのことを冷笑とともに発見させられるようになる。それと気付かぬうちに、世界とはこんな都合のいい甘いものじゃないと思わされる。負の願望充足が満たされるとき、冷笑と共にその世界を肯定するようになる。
「誰かがほんの少し優しければ彼女達は学校に通い友達を作って幸せに暮らしただろう。でもそうはならなかった、そうはならなかったんだよロック」
たとえばベニーのこの言葉は自分自身と世界の残酷をその連続性の中に置いている。それを聴くときに読者にそれぞれ去来するものはどんな世界精神なのだろうか。

犯罪係数(?)を上げて言いがかりを書いてみたけどちょっと射程を広く取りすぎたスメル。アニメにツッコミ入れるとかこんなの全然ハードボイルドじゃないスメル。書いてて連想したんですが虚淵×榎戸でヒロイズム対談とかやってほしいスメル。ガルパンどこ行ったスメル。ベニー風に言うと友達に優しくされたりしたりできるのでガルパンはいいですよってことで。戦争始まったりネウロイみたいなエントロピー魔獣とか出てきたら確実にブチ切れますが。まあこの好印象は20人くらいの美少女のエクリチュールがソツなくフィルムに現れているような気にさせられたゆえのものなので、フミカネが最強かっていう。