中二病でも恋がしたいを見たよ。
別にとりたててこの作品がそうであるというわけではないけどオタク向けコンテンツのギャルゲ病みたいなのってやはりめんどくさいなって思いました。ノベルゲーからラノベに受け継がれた恋愛らしき何事かへの執着というか、ナオンに何か解決されるべきものをアウトソーシングするメソッド。あるいは構成と素材に何らかの方程式を見出すような(見る側にもそうさせるような)メソッド。もっとも、作品から何か感じたことを言葉にするために拠り所としてそれがなされるというのは理解できるのだけど。

題材そのものはスクールカーストコンテンツから派生したここ数年のラノベのトレンドで、いつものネットカルチャー馴れ合い目配せなわけですが、それを京アニ的なるものが抱える一種の作家性スタジオ性として取り組んだときに、二人の高校生の恋愛の軸として据えるというのはちょっと似合わないというか無謀であったなあという。というかコンテンツとして出てくる中二病って9割がたはネット上で戯画化された邪気眼であり、最初から薄ら寒い目配せが無ければ成立しない。そもそも邪気眼なんてものを本気にしてる奴、本気で演じてる奴なんて誰もいないことを前提にしているのが馴れ合いフレーズとしての中二病ネタの楽しみ方なわけで、肩肘張ってドラマに組み込むようなことするとどうしても齟齬が出る。中二病の原因や発症や卒業以前に14歳だか15歳だかで夜中に黒コート着て出かけて自作の呪文を口に出して叫んだりする奴は何らかの精神疾患を疑うべきであり、それを見て憧れる奴も同様である。自意識過剰とかそういう次元じゃない。
リアリティレベルが狂ってるからダメと言っているわけでは無くて邪気眼というオタクの屈託でボロボロになったものを取り繕うようなオーラ出てるのがイマイチ。 そんなもん引き受けなくていいんだよ。もっと奔放でいい。それで突っ込むとたぶんくみんが一番ヤバい。キャラ作りとかでまた別のめんどくさいところ行っちゃいそう。
実体の無いオタク作法との戯れにオチをつけなければならないものをオタク向けの文法で処理しなければならないのでアウトソーシングメソッドもむべなるかなって思いますが、イマージュの混同があった作品だったなというのが正直なところ。でももう中二病邪気眼の混同を指摘したところで何の意味もないしねえ。個人的には中二病邪気眼のイマージュを混同されると信じたいものを別に信じてもいないことで誤魔化されている気分になる。
元々オタクの自意識の問題で、今のような奇妙な捩れは劣等感を刺激して動員するタイプのコンテンツの手法が確立されたことの一環だと思うけど、それをやりすごすためにここ数年かけて方法論をマイルドにしてきたわけでさ。笑ってやりすごすために自己不全のマッチポンプの構造をスライドさせてきたわけじゃん? 中二病でも恋がしたいというのはつまり中二病なるものには恋愛が不可能だとされるくらいに追い詰められていたわけでw
たいていのラノベとかでもすでに邪気眼ネタってヒロインとのコミュニケーションツールでしかないでしょ。まあこの作品でもヒロインの姉ちゃんに呪文をとなえてるのを録音されて脅されるけど、ラノベで分かりやすいとこだと『俺修羅』でも邪気眼設定妄想ノートを読み上げられて、それでプロットを進めたりして、すげえマイルドやん? そういう流れの中で、ネットカルチャアで恥ずかしいものとして動員されてきたものを共同幻想的なネタにしていってる感じで、だからまあギャグっぽい所は成立してたし、いいんじゃないかと思います。このアニメの一番の発明はあの妄想バトルでは。あれはかなりアクチュアルだったw

あと、最終回で唐突に連想したのがキック・アス。こっちと向こうの自警主義やなんやの比較はイマイチよく分からないけど、思春期の自己不全コスプレヒーローごっことしちゃあキック・アスの方程式のほうが好き。そういうの意識して並べると抑圧されたものの正体が現れるのかもしれないですね。たいていは性と暴力に回収される類のものだと思いますが。日本だと仮に何かヒーローっぽい力が使えようが使えなかろうが、日常がすごい平和なのでキチガイじみた使命感を持ってないかぎりは特にやるべきことが無いw だから暴力的な自警主義の妄想に向かわずに過去と未来の時間的な精神外傷の葛藤や劣等感の克服との戯れになるっていう。

あんま作品語ってないけど、そんな感じです。