リアル・フィクションの憂鬱。

若いSFファンの憂鬱ですよ。もしかしたらオイラにとってSFとは結局バラードとかディックあたりを読んでいればいいだけなんじゃないかと、ちょっと作家と年齢が近いからって、ちょっと世代の共犯感覚が気持ちいいからって。煽り耐性ないんじゃねえの、俺。リアル・フィクションに何が足りなかったのか考えてみると、それはおそらく読者にとってのオブセッションだったんだよ、たぶん。ファウストの何が数字に反映されたのかって、ぶっちゃけると舞城の分かりやすい尖がり具合、文体からはじまり文芸誌でも粋がりますよ、書きまくって文壇かき回すよ的スタンス。本人はどう思ってるかワカランがな。そして西尾の書くいーちゃんにシンパシーを感じ、佐藤友哉の終わってる具合にシンパシーを感じた、あの奇妙なグルーヴ感だったのではないだろうか。ファウストの創刊号は買いましたから、なんとなく想像する。確かにあの時のファウストは何かをまきこみ、何かが変わるような気分にさせることができた、できていた。だがリアル・フィクションにはそれがない。http://d.hatena.ne.jp/evataka/20051201#p1で適当こいたけど、ないんスよね。正直。でも秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏はそういう空気もってたかも。作品自体はおもしろいけどムカツクがな、イリヤは。冲方丁は少女にトラウマを押し付けて悦入るし、小川一水はなんかサプライズが足りないし、他の面子も小説はちゃんとクオリティの高いもんを提供してくれるんだろうけど、読んでる側が虜にされるモンは望めないっぽいんだよな。しかし書いてて気付いたが、これはミステリとSFという業界の構造にも起因してんのな。ファウストは↑で書いたオブセッション以外でも純文学へのカウンターとしてのスペックもあったわけで、プラス西尾でキャラクター小説としての足場も確保と。でもSFってさ、ぶっちゃけ、せまいやん。打倒すべき古い世界がないやん、ラノベ世代っつってもキャラで読めへんやん。つまり、ただ若い人がSFのレーベルでSFを書いただけ。書いてて悲しくなってきたわ。まあエヴァオタの俺からしてみればリアル・フィクションが仕組むべきだったのはエヴァブームみたいなテンションだったんじゃねえのと思うわけよ。マルドゥックにももう一人女の子出してさ、2ちゃんのラノベ板でバロット派ともう一人派で喧嘩になりつつ、世界の中心で愛を叫んだ新世代の俺たちみたいな煽りができるようなさ、これは書いてて悲しくもないな、空しいけど。


http://d.hatena.ne.jp/solar/20051202仲俣氏の古川×柴田トークショーレポ。ナンバガくるりとあともう一つっておそらくモーサムじゃないかと。古川日出男に関してはまた今度グダりたい、「ロック」とか「ポップ」以外のベクトルで。

一九七二年のレイニー・ラウ

一九七二年のレイニー・ラウ

やはり打海文三はカッコイイ。誰もがやろうと思って、出来そうと思いながらやっぱり出来ないことをやった小説。何がよって、真摯であることに胸を打たれることです。出来事自体は都合のいい妄想、ファンタジーって言われてもしょうがない、そんな小説が打海の旦那が書けばあら不思議、最良の短編恋愛小説たちのできあがり。打海の小説から受ける感触って他の作家にはあんまりない、言葉が意味を持つ一歩手前、例えばセックスだったらセックスっていう行為とその意味を示すあらゆる概念やら示唆やら啓示やらを執拗に問いかけてる稀有な手触り。たいていの作家って経験が先立つっしょ、セックスならとりあえずスマートにヤッてから朝チュンでセックスとは、見たいな流れ。この人はそれがなくて色んなモン突き詰めてからセックス。それは愛情の確認とかそういうんじゃなくて、機微っていうか認識同士の対話っていうか。彼氏彼女たちのやりとりがカッコよすぎます。この本に限らず。全てが。現代作家でこういう真摯さを高い精度で描けるのはこの人くらいじゃないでしょうか。