新潮2006年1月号 『大きな熊が来る前に、おやすみ。』 島本理生
オンナノコだな、これはまた。なぜ83年生まれでも女はファウストとかリアルフィクションとかアホみたいなことほざかなくていいんだろうと思うわけだ。若者のいわゆる青春が運動と現象として表象されるならファウとかリアフィはたぶん後者に属するはずです。受け手に限定して受動的に何らかの現象を享受する、という意味で。(リアフィに関しては俺の中ではもうただの世代交代、新世代の台頭という結論。)もう一方で運動は主体的(っつてもほとんどがメリトクラシーに支えられたカスみたいな主体性なんだけど)に対象と自己を併走させることのはず。イケてる恋愛、イケてる仕事、イケてる人生ってやつね。死ぬほどテキトー、笑わないで。その領域は世界でも社会でもない現代人としての自己決定の場所であると思われ、そこで俺たちは闘争と逃走の狭間に立たされてるんだろうと思われ、昇っていったり堕ちていったり怒ったり悲しんだりスカしたりな。つうか島本と関係ねえな、何書くか決めずにそういや若かったなあいつと思って書き出したらこれか、最悪だな。まあ普通の文系女性が書いた教科書っぽい小説ですわ、綿矢りさもよく教科書通りとかって言われるけどこの人も。特に書くことが思いつかん。


島本理生つながりで若い女の子(オタク寄り、いや、べつにオタじゃなくてもいいけど)にとっての同時代性ってなんなんだろうと思うわけだ。エヴァからこっち、10代前半の頃からさんざん時代の病理に犯されてるという被害妄想を植えつけられて何をもってして世界と関わってきたのかと。例えば、なんか桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)をすごいと言ってるのは20代のヤローだけなんじゃないかみたいな文章をチラッと読んだんだけど注視すべきは年齢じゃなくジェンダーなんじゃねえのと、まあ適当に思いついただけなんで突っ込み歓迎です。例えば22歳の女は桜庭一樹オブセッションがあるのかなと。そういうこと。ライトノベル界隈の10代の気持ち云々とも繋がるはずで、西尾維新は22歳が本気で読む小説じゃないとして、じゃあ22歳の男は何を本気で読んだりするのかってことになる。そういうことを気にしないのが22歳の読書だろうと言うんだが政治性社会性歴史性を追及する整理屋路線は年明けも続けようと思うのでスルー。つうか固有名詞だけで考えんのって限界があんだろうなあ、ダリーなあ。こんなことすら理解できないとは。つか小説じゃないんだろうなというのを書きながら気がついた。