追記

関東組もやはり騒然としているようである。
軽く見直したんだけど、フィルムの全体的な印象は星野リリィキャラ原案ということもあってどこか柔らかくて気品があるので、孤高の鬼才、幾原監督のイマジネーションうんちゃらかんちゃらというようなオーラよりも非オタク向けというか、非オタクというのも漠然としているけど、かつてどこかで求められていたものってこういうフィルムだったんじゃないかなあという気がしてきた。きっと何者にもなれないアニメノチカラというか。オタクのものでもなくパンピ向けにシフトされたものでもないただのアニメ。
そういう感覚は世間の反応にも飛び火するんじゃないかと思っていて、まどかやあの花を一般誌(笑)の誌面で特集して何事かを為そうとしていたムーヴメントが仮に存在していたとするなら本当はこういう感覚を与えてくれるフィルムで見られるアニメでやりたかったんじゃないかなあと。
まどかやあの花という極めてオタホイホイなアニメでその歴史への介入作業に一つの区切りをつけざるを得なかったすぐあとでこういう軽やかなムードを纏うアニメが放送されるというのはなんとも皮肉なことである。
スタッフワークを見ても、オタクの所謂メインストリームには背を向けている感じ。星野リリィはアニメ化作家だけど、動員力という点では幾原監督の新作という期待とは釣りあわないし、シリーズ構成にいたってはほとんどド新人らしいじゃないですか。もちろん交友関係による繋がりという面が大きいということなのでしょうけど、たとえば、まどかの新房虚淵蒼樹うめで00年代うんちゃらかんちゃらみたいないやらしい言い方は出来ない。魔法少女でもなけりゃあ、10年後のノスタルジーでもない。
んで、その作品を取り巻く環境や意図のようなものでピンドラとまどか、あの花の中間にいたのがスタドラになるのかなあというのが今のところの脳内偽史です。フィルムの軽やかさは少し通ずるものがあって、なぜスタドラはネタで処理されてピンドラはアリになったのか。アリになるかもしれないのか。
ノイタミナとか日5みたいな枠の意味とか有名クリエイターに付与される意味とか、なんとかかんとか。きっと何者にもなれないということ、青春を謳歌すること、オタクであるということ。
ハケン(笑)アニメになろうがなるまいが一定の支持を受けることは約束されているようなものでしょうけど、あらゆる部分で注目していきたいアニメが現れたなと改めて。
あと、ウテナ世代にとっては、いまんとこ世界に対する怒りとか苛立ちとかが軽やかさに回収されているように感じられて物足りないけど、そこはシムーンを見ておくのが生存戦略というものではないでしょうか。(キリッ


マジでハイセンスすぎるわ。ARBてw