ガトーはフルメタのあとがきで碇シンジを行動しない主人公と幾度となくdisったりしていたわけですが、ホータローの省エネ主義は大丈夫なのかなって、私、気になります。そのあとがき書いてた時期とよねぽが氷菓を書いてた時期は若干重なるん。まあ仕事だからね。

灰色として提示される青春、モラトリアム。氷菓のそれは緩やかな保留の中で青春のイマージュを停滞させ、遅延させる試みなのでしょう。ある種の頑なさとして、何かしらの気分を代弁し、掬い上げ、共感や反感を起こすために提示されるモラトリアム。
あるいはそれは、「私がモテないのはどう考えてもお前らのせい」のように自意識過剰なモラトリアムの只中にある闘争としての停滞と遅延の試みと似ていくことになるのかもしれません。「私が〜」のタイトルからしルサンチマンの発露をカリカチュアさせたようなところもあるけれど、いまどきの消費スタイルはそういったルサンチマンカリカチュアさせながらも一時の安らぎの場所を与える、それを眺める、というようなことも望まれている。
現在から学生運動を見つめ、あるいはルサンチマンを見つめ……。消費するためのネタとして最適化された対象たち……。
学生運動はいささか黒歴史じみたところがあるけど、その黒歴史っぷりというか、痛々しい闘争はそのまま現代のモラトリアムのための停滞と遅延にスライドしているのです。それを消費するための眼差しは対象をある程度の分割、分断させることでその像を浮かび上がらせることが必須になるわけですが、その眼差しがしばしば闘争の拡大を拒絶する場合があって、私はそこでなんだかなあとなるわけです。

いや、特に何が言いたいということはないのですが。アイ、スクリーム。(ズコーAA略

さておき、青春とはなんぞやのディスカッションやモノローグは野暮ったく、古典部というのが磁場としてさほど魅力的でないドリーム小説設定ではあるなと思った。もし高校時代に「先輩、俺って省エネ主義なんですよ」とか「先輩、データベースは結論出さないっスよ」とかいう後輩がいたら仲良くできる自信がないからな。古典部が箱庭でよかったよ。