あるいは女性からの視点と近代的男性像の完成。
たとえばシンデレラストーリーの男役である足長おじさんはひとつの説話であり、近代的男性像の理想像のひとつであった。経済的に成功し、それを身寄りのない貧しい少女に分け与える。高潔さや慈しみを忘れない完成度の高さが理想として要求されていた。小説や映画の中でヒーローがヒロインの頭を撫でるようにして近代社会の一つの側面はそういった超人的な男性像を求め、かくあれかしと描いてきたのである。工業化や経済成長のほとんど不可避の内面化によって神なき時代の超人が近代において要求されていた。

あるいは、詩を書くのをやめて、砂漠をうろつくアルチュール・ランボー。近代詩のカリスマは超人である自分を捨てようとした。近代社会が要求した超人の完成の末路、孤高の漂流者……。

とまあ何やら意味深な書き出しをしてみるわけですが、べつに意味はない。

西部開拓精神、フロンティアスピリットを受け継いでハードボイルドは作られていった、なんていいますけど、ぶっちゃけどういうことかわからないw ハメットのどこにフロンティアスピリット(これもよく分かってない)があるんだお? 『血の収穫』も読み直したけど悪徳の都ポイズンヴィルを舞台にして、登場人物が全員クズのトンデモ系ノワールだったぞ(アクセルワールドを髣髴とさせる。主人公はデブ設定なところまで一緒)。ヘミングウェイとか読まないといけないのかしらん? あと分からないのが簡潔な文体ってよく言われるけど、ハードボイルドっていちいち余計な一言で皮肉を言わせたり、タフな内面描写のために地の文でウダウダ言ってることが多いと思うけど。でも西部劇ってある意味ではゴロツキやチンピラや無法者だらけでその中でヒロイズムを発見する話が多いから、そういった意味ではたしかにハードボイルドの原型といえるのかもしれない。
さておき、西部開拓精神とハードボイルドから出発した近代的な男性像の説話をむりやり連結させるなら、日本ではヴァンパイアハンターDという近代的男性像の完成形を西部劇へと回帰させ、いかなる共同体に帰属することも許されない存在として描いていた、という。砂漠をうろつくランボーのようにか、究極のヒーローはそのようにならざるを得ない。都会的ライフスタイルとして提示された男性像の成れの果てを80年代の村上春樹が描き、それと並走して、菊池秀行が伝奇SFの領域で西部劇の意匠を借りてそれぞれ示したスタイルとしての近代の成れの果てがすでに完成を見ていた。冷戦構造やバブル崩壊やらでヒロイズムの幻想は砕かれてしまって90年代にはまあそれが「ないわ」ということになるんだけど、実際のところ、どうなのでしょう。ヒロイズムはもう90年代に死んでしまったのだろうか。
近代が内面化してきたその雄雄しい夢の挫折、超人になれなかった男達は必然的に組織や共同体に居場所を見つけるわけなんだけど、このラインはちょっと貧乏くさいんw 踊る大捜査線の青島刑事は一種のヒーローではあるのかもしれないけどユースカルチャアとしては敗北のあとに立ち上がってきたものだから。でもそういうある種の情けなさを引き受けることのかっこよさみたいなものも確かにあるので、そこがユースカルチャアではない部分、警察組織の中で青臭さを持ちながらも大人になることを引き受けた日本の90年代以降のひとつのヒーロー像なのであろう。

一方で10年代の娯楽小説において我らが川原・佐島の描く世界はまあとりあえずガキが強く正しく美しく、大人は弱く悪く醜くという美学がクール。さすが! 電撃文庫さすが!
そこで示される規範においては基本的に正義や悪といった主題が消失している(優れた西部劇映画がそうであるように?)。そこにある状況はそれぞれの正義や悪が乱立しているといったポストモダン的状況なのではなく、一つの法、掟を巡る子供達のための黙示録だ。正確に言えば、その黙示録に一つの法を打ち立てることが最上位のミッションなのである(暴走族的世界観における全国制覇の幼稚な夢想がそうであるように?)。バーストリンカーやネトゲオタや魔法師という新たな人類が古き掟を駆逐していくことが作中のミッションとして語られ、その抗争の理不尽さと激しさはまさに弱肉強食、ノワールさながらの謀略と裏切りの坩堝である。奇妙に歪んだ世界観が内面化され、その奇妙さのままに一種のノブレスオブリージュを作者は称揚している。その黙示録において大人達は皆愚かで救いがたく、時には醜悪ですらある。激安ヒロイズムの時空に巻き込まれた引き立て役たちは作者の高貴なる義務においてまともな思考回路と人間性の諸要素を剥奪される。その高貴なる義務は時には主人公の両親にも及び、SAOのキリトの両親は妹との恋愛にドラマ性を持たせるためにすでに亡くなっているという設定にされ、魔法科高校の兄妹の両親は主人公たちが持つ被害者ヒロイズムの正当性を確保するためひたすら外道として描写される。

90年代以降に行き場を失ったヒーローたちは組織や共同体に居場所を見つけることを選んだが(暴走族でさえ大人になるように?)、川原・佐島の描くヒーローは自らの両親にすら帰属を持たず、親という概念はそのヒロイズムの発露のために捧げられる生贄の一つとなっている。説話としての近代的社会が唱える超人としての人間像を構築していくと、作家の資質のようなものが現れ、少なくとも川原・佐島には父や母といった言葉に対する屈託としてのコンプレックスは作劇として描かれず、魔法科高校では倒すべき敵の一つとして、同じサバンナの掟を内面化した敵として存在している。もっとも、オタクカルチャア作品において主人公の親の扱いは色々な制約を課せられる。へのへのもへじの親キャラが借金作って子供を捨てたりするように。 舞台設定のためのネタとしての親の生贄は多く見受けられますが、川原・佐島は親の犠牲をそういうネタとして処理しない。SAOでは両親を亡くした孤独を背負うクールなキリトが描かれ、その憂いに満ちた表情に妹はときめくし(血は繋がってないからワンチャンあるでっていう)、魔法科高校では近代以降の核家族的な親子の関係性というより貴族的世界観における軽蔑や憎しみを抱いているようである。まあ魔法科は元々世界が魔法使いに事実上支配されているという設定なのであの兄妹が貴種流離譚として被害者ナルシシズムに耽るのは正解なのかもしれませんが。しかし支配階級の中でつまはじきにされてる劣等生、でも本当はすごい俺様っていうのも安いヒロイズムだなって思いますが)
たとえば、今から見ると異様に安い人間観の中でヒロイズムを発見し、差別的な表現を用いて作られていた多くの西部劇があり、その自己反省として60年代くらいから修正論的な視点を持った西部劇が撮られるようになるのだが、それがフィクションを語る上での最低限の真摯さというものであろう。ヒロイズムを発散させることばかり考えている作品というのはやはり無様だ。そのために生贄にされる者たちがいるならさらに無様だ。

あるいはバットマンは、両親の死をその決定的なルーツとして誕生したヒーローであり、世界有数の大富豪の足長おじさんであり、都市の中で生きる近代の超人のカリカチュアである。ノーランバットマンではダークナイトでジョーカーによって自身の超人性を極点にまで高められてしまったブルース・ウェインという一人のヒーローの歪な完成形が描かれ、その歪んだヒーロー=超人を一人の人間へと軟着陸させたのがライジングという物語だった(なんか思いっきりタイトルに反すること言ってますが)。つまりライジングしたあとにブルースは超人であることをやめる。アルフレッドの説教は超人であろうとするブルースに安らぎを与えたいというあまりに人間的な優しさにおいて為されたものだ。アルフレッドマジメインヒロイン。
ライジングはメインヒロインのレイチェルを失ってしまったあとの物語ではありますが、SAOや魔法科高校の劣等生もまたアスナや深雪という一応のメインヒロインがブルース・ウェインにとってのレイチェルのように特権的な地位を持ってることになっているが、おそらく彼女達には自分が愛する男たち、近代化の成れの果てになりつつある超人である恋人に安らぎを与えることはできないであろう。彼女達にとっては足長おじさんの説話として自分の恋人達が存在しているし、作者もその説話の中において恋人達を描こうとするだろう。むしろそこでは恋人が超人的にヒロイズムを発揮できるように作劇の中で協力することさえするだろう。
一度読んでみたいのは、川原・佐島のサバンナの世界観の中で、主人公が作者のリア充モテ願望の仮託という規範を失って真の超人にまで、つまりは作者の想定する近代的な男性像の極点にまで押し上げられたりする展開だが、まあそれは望むまい。ハービー・デントに寝取られたり、ジョーカーに目をつけられたりっていう展開は今の所ラノベハードボイルドにはない展開なので。しかし、ダークナイトのレイチェルってすげえブサイクだからな、二次元美少女の圧倒的勝利感。戸松!(余談だが、戸松主演の秋新番となりの怪物くんも男性主人公はコミュ障の超人であった。規範は強固である。)
まあ、実際は近代の極点として追い詰めてもただのヴァンパイアハンターDになるだけやんとか、あるいは現実的な、文学的な説話の中で留まって村上春樹のようなハードボイルドワンダーランドを生きるという手もある。死んだ恋人を回想するとかな! そして新しいヒロインが「分かるわ、その気持ち」とか言って文学的セックス。

超人を超人のままにしてラブコメ規範も温存しているのが現在の禁書目録。聞き及ぶところによると、今は超人たちの漫遊記状態になっていて、それがかまちーにとっての自身の禁書ワールドにおける超人の完成系であり、人間像の限界である。同時に電撃文庫の正体であり、ライトノベルの正体である。ラブコメディの中で超人は軟着陸を始める。しかしそこではだらしなく弛緩した男性的な欲望の情けない世界のありようが広がるだけだろう。

禁書目録のその肥大化した男性像ヒーロー像の膨張のなかで達成された歪んだ世界征服の実像がポスト禁書目録ラノベのひとつのミッションとして現れ始める。実態として世界を股にかける唯物論的な自意識の拡大。
村上春樹や菊池秀行らの描く近代的男性像の想像力と異なるのはおそらくこの唯物論的な世界認識と自意識の膨張ではないだろうか。ある一定の自意識の臨界においては激安ヒロイズム小説たちは村上春樹や菊池秀行らの開いた男性像の変容の射程に収まっていたが、さらにそこから肥大し続ける自意識はさらに自らの雄雄しい男性としての完成を目指すようになる。異能バトルは戦争小説になり経済小説にもなり政治小説にもなり、それは少なくとも作中の世界においては世界征服のビジョンの一端として語られることになる。SAOはゲームが軍事目的として利用され魔法科高校の劣等生は主人公が核兵器さながらの大量破壊を実践し、世界のあり方そのものに対するアプローチが試みられ、そのビジョンは変容可能で現実的なミッションとして提示される。いわば、世界を革命する唯物論としてのヒロイズムが激安のバーゲンセールとして実行されることになるのである。禁書目録においては第三次世界大戦という言葉が明示されてすらいたのである。

村上春樹にせよ、菊池秀行にせよ、彼らの描いた男性像の完成形は基本的にはノンポリであった。しかしライトノベルを中心にしたユースカルチャアでのその後継者たちはおそらく00年代のデスノートコードギアスなどを経由して(?)半ば導かれるようにしてテクノクラート的なロマンに自分達の近代的男性像の完成を託し、自分達のヒロイズムを軌道修正し始めるようになる。そういった世界のあり方へと介入し、操作したい欲望のヒロイズムはまおゆうなどにも端的に現れているし、はぐれ勇者においてさえも新刊では世界の第三勢力としてのし上がった主人公達が描かれる。そこではSF的な寓話や思考実験という想像力とは異なるベクトルで、現実の欲望として望まれるパッションに応えるようにその世界のあり方が問われるようになる。
近代的男性像のヒロイズムは一度消失しつつあった。時にはそれは美少女に雄雄しいヒロイズムを託した男性的ロマンとして表現されることもあった。冷戦構造の崩壊やバブル崩壊以降において近代の男性像は自身のヒロイズムのあり方に疑問を持つようになり、ユースカルチャアも自身の内面においてその革命を試みるようになっていった。
そして足長おじさんの説話やハードボイルドの誕生からおよそ100年が経とうとしている現在、その近代的男性像を受け継ごうという日本のユースカルチャアにおいては世界を革命するヒロイズムが復権しようとしている。ただし、激安で。足長おじさんが少女に対して資金を援助するような手つきで、頭を撫でるような手つきで超人たちが、ヒーローたちとテクノクラートたちが世界に対して革命を実行する。この超人たちの圧倒的な雄雄しさ、逞しさ、押し付けがましさ、傲慢さ。

パルプマガジンから出発したタフガイたちと少女に資金援助を申し出た足長おじさんの末裔達、その成れの果て……。
最強キャラの議論に熱中する少年達の甘やかな夢想と、世界を制御下に置きたいという近代的男性像を目指す男達の雄雄しい夢想のマリアージュ……。




んー、55点。
とここで韜晦を示すタイプのワナビは永久に作家にはなれないのかなって、私、気になります。僕はキメ顔でそう言った(西尾ネタを置くことで東大話法による韜晦合戦を示唆する)。オチつけんのももたいがいめんどくせえな。