ガールズ&パンツァー劇場版についての覚書

ガルパンの劇場版については、無二の傑作だとツイッターに書いたけども、位置づけがちょっとむずかしいので、ちゃんと作品の文学的美学的なところを自分の中で整理しておきます。
最初に思わされたのは、これはやはりテレビシリーズのあとの話であり、何事かが語られた後のお話であり、つまるところ、何かが終わったあとの、充足されつつある世界の手触りがそこかしこに感じられるフィルムになっていたということです。冒頭のエキシビジョンマッチで提示されるあの充足した世界の手触り……。

この手触りは言うまでもなく、けいおんに代表されるひとつの類型、大げさに言えば非物語的な手触りのフィルムである、ということで、しかしそこに装填されるのが戦車道というすさまじい大ぼらという成立条件がこのフィルムをきわめて特異なものにしている。

テレビシリーズもそういったものがいくらか意識されていたにせよ、プロットは基本的にみほの成長(!)や姉妹の確執、メンバーのそれぞれの家族間の心情の具体的な移動が認められたのだけれど、劇場版においてはその部分は親密さを獲得した接近において語られることになるわけで、それは姉妹の描写が分かりやすいだろうし、ほかのメンツにしたって「こいつら仲いいな」というハッピーでヘルシーな気分になるやりとりが多く見受けられる。

この信頼によって結ばれた幸福感は、何かが終わって満たされつつあったとしても、あるいは何かが欠けてしまったのだとしても、それでも続いていくこと、ひとつの世界を語り続けることによって獲得されたのであり、アニメーションだけが到達できているその境地であると言ってしまってもいい。そこにやはり声優たちの恐るべき存在感を認めなければならない。世界を肯定しようとする力として。

非物語としてのガルパンのテーゼというものがあるとすれば、そこに兵器の駆動音が、戦いの道具の、戦車の轟音が鳴り響いているのだとしても、それは別に打倒すべき存在に向けられているのではなくて、むしろ彼女らが住まうあの世界の祝福のファンファーレとしてあるのだとそう解釈してもよい。敵対すべき、排除すべき何ごとかを決して存在させまいとする決意の轟音として鳴らされているのだと解釈してもよい。あの戦車道という馬鹿馬鹿しい大ぼらの競技で鳴らされる音を、彼女たちによって進行する革命の轟きなのだと解釈してもよい。

たとえば、ガールズパワー≒フェミニスムの炸裂を連想させ、またはミリタリズム≒兵器の駆動、爆走の映画としてマッドマックスを連想するのも間違ってはいないけれど、マッドマックスがある意味では男性的なものに対するいささか復讐心めいた意地の悪い戯画化が為されていたことを想起すれば、そういった息苦しい構図からもガルパンは自由になっているように感じられる。
この世界が押し付けようとするリアリズムに対する考証、リアリズムに交渉するためのフィルムの手触りとしては別のアプローチがとられていて、そこでハリウッドとクールジャパンといった構図が導けるのかもしれないけど、まあそこは別にいいです。

つまりは、重要なのはプロットの希薄さと、社会人チームはもちろん文科省さえ悪役ですらないというような世界観こそが一応は見る側に求められていて、ある種の夢想、人によっては欺瞞に映るかもしれないことを懸命に成立させようとしている営みとしてこのフィルムはある。

その中で、継続高校の不思議な、吟遊詩人のような、能登麻美子の声をしたキャラの言葉は、フィルムの浮遊するリアリズムと現実の私たちを繋ごうとするかのようであり、そして知波単学園の特攻精神は言うまでもなく現実のあの戦争のあの国の住人である私たちに対するものであり、その喜劇めいて置かれる特攻と並行して配置されるプラウダ高校の自己犠牲においては「作劇上の幻惑的な自己犠牲による感動」というような効果があって、特攻の両義的な思考を導きもするだろうし、浮遊したリアリズムにおいても一筋縄ではいかなくて、少し醒めた、うろんな物を見るような視線でこちらを見ていることも忘れてはならない。だから、非常に過激で、闘争的なフィルムだと言ってもいい。世界に対する苛立ちを表明しているという点において。

非物語的なアクション映画という、ある意味では非常にエポックなことを成し遂げているフィルムであり、この達成は突然変異ではなくて、やはり続いていたからだということもある。最初に言ったような意味でもそうだし、アニメとして続いたこと、多くの先行作、ストライクウィッチーズをはじめとする商業的成功作から企画されアニメ化された二番煎じとしてのガールズ&パンツァーという作品が、先輩のストパンが不可能な文学的美学的な達成を後輩がやり遂げてみせたということは非常に意義があるというか、まあそのことがアニメシーンにおいては突然変異っぽいんだけどもw もしかすると、アニメシーンの生成する、少しずつ変化していく「今風のアニメ」としてどのようなフィルムを作ればいいのかという部分でうまく歯車がかみ合ったのかもしれません。2015年の日本のアニメがどんなことをやっていたのか、何が出来ていたのかという意味で、エポック。
まあ一言で言うと、島田フミカネキャラがゴージャスな画面でキャッキャウフフしながら激しいアクションをするだけではダメだということである。

いまだに、多くの物語たちは、自身の物語の周囲だけしか旋回できずにいるわけで、まあここでもちろんライトノベルを想起してもよいのだけれど、しかし、その継続させようとする身振りにおいて生まれるものがあるということです。人気作品を真似たものがなにごとかの要因によって、その先行作とは別の達成をなしてしまうというのは、ストブラなどがあり、そういうジャンルの変容の瞬間みたいなものも、僕の中でのシンクロニシティがあって、そこも嬉しかった(ストブラについては前のエントリに少し書いてあるぞ)。 

正直なところ、とりたてて好きな作品でもなかったけれど、この劇場版に関しては、本当にすばらしい映画だと見ながら感じてしまって、何よりも、すごく身近に感じてしまったというか、もちろんそれらはフィルムの幸福感によってもそうなんだけれども、それによって自分に引き寄せようとしたときにこれを傍においておきたいなあというか、自分と同じ街路に立ってくれと、そう思い始めている。愛せるようにこの作品世界が生成変化していったのは、まったく驚くべきことである。
そして、物語から、つまりは物語という概念のおおよその問題から自由になった街路の、つまりは荒野としての街路、現実の僕自身が住む世界と同じ街路に置かれるのではないかと、この世界との闘争の最前線としての街路に降り立ち、その街路ではあのフィルムにいるような者たちのように戦車の轟音を響かせるようになれるのならばと、そんな憧憬めいた感情を刺激されてしまいましたとさ。