スペクターはアニメみたいだったということで、まあちょっとインターネッターアニメファンふうの言い方をすれば質アニメ007みたいだったのですが、いわばいかにジェームズ・ボンドジェームズ・ボンドでなくならせるかという話で、もうこれはすごい単純にラストシーンで説明されていて、つまり人を殺さず、銃を撃たないジェームズ・ボンドをフィルムの上に焼き付けるということであり、まあ本当に、卒業であり、祝福であり、娯楽映画としてはおもしろくないけど質娯楽映画としてはバッチリ決まっていて、よかったなあと思いました。

嵐の中でもがく凧であるとか、殺しのライセンスというのは殺さないことを選択することだとかいくつか象徴的なセリフがあったと思うんだけど、ダイエル・クレイグの007を総括しつつ、個人的な憎しみ≒呪いから脱出するというのは亡国のアキトの構図とも似通っていて、ひょっとしたらなんだけども、10年代のアクションもののコアはここにあるのかもしれないなあと感じるわけです。闘争からの脱出というか。
現実の社会性時代性をひっくるめて考えたときに、ひたすらエスカレートしていく闘争状態から身をそらす程度のことでなんだよそれってなるかもしれないけどある種の良心としてそういうことを描くのもアリではないかなあと。

ソードアートオンラインなどは、そういう身振りが反転したときのヤバさみたいなのも感じられる内容だし、ネトゲの戦争と世の中の戦争状態も結局は地続きなので、その中での何かやりたさ、みたいな願望として考えるといいのかな。まあ、こういうのもガルパンの最前線ぶりの積極的誤読と同じ意味です。僕の場合は。