キャスティングの妄想というのは、いわゆる不断の欲望であり、知的な遊戯でもある。それは「声の受肉」という究極の唯物論を導くことになるだろう。たとえばハルヒ、たとえば長門、たとえばみくる。アニメ化が意識される前から彼女たちには「声」が宿っていなかったろうか。声優の聖性が保障されるのはなぜか、放たれるべき、けれども不可能な声に最も近づいてみせるからに他ならない。しかし、そこに差異が生じる。だがそれでいいのだ。不可能性への告発は狂気しか呼び込まない。声は一度だけ放たれるのではなく、繰り返されるのだ。
ごめん、電波。長門とみくるのどちらかを選ばなければならないという苦悩の中で受信しました。