おそらくデスノートがつまんなかったのと同じ理由

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/017.html
いわゆる「罪を背負いたいメソッド」と「俺ってイカれてるだろメソッド」の反復。疎外と抑圧からの脱却という構図がファンタジーというのは基本的に誰でもわかっている事で、それでもなお特別でありたいと暴走できるのがアドゥレセンスの特権。基本オタはロマンチックな意味で自分のことを醜いと感じているので「欠落」が世界の秘密への顔パス条件として提示されても不思議じゃない。暴走の最中に恋愛して欠落を癒されたり救われたりするのもアリ。むしろなんで恋愛なんだろってくらいアリ。最近は恋愛にもいちゃもんつけてイカれてる自分を主張するのが流行ってるのかしら。(人を愛せない俺みたいなアレも含め)
なぜあんな殺し方をするのかっていうのも殺す=罪と、殺せる=イカれてるという記号でしかない。いうまでもなくこれは西尾のせい。キャラ立ちのために倫理的にねじれた殺人を大量投入するという。前島氏が理解できないという『レジンキャストミルク』で主人公がいきなり硝子に殺人の判断を委ねるのもそういう西尾以降に対するあてつけとも読めるんだが。どうか。
えー、詩的な表現をするならば2人の神が存在するということなのでしょう。つまり、かけがえのない日常という神と世界の秘密という神が。その2人と同時に対峙するために要請されているのが現在の新伝奇的な構図なのではないかと。たぶん人間としてその2人に向き合うには俺たちは醜すぎた。余計なことを知りすぎたし、肝心なことを知らなすぎた。求めすぎたし諦めすぎた。そしてここで召喚されるのが「欠落の天使」。放棄と開放の使徒。暴走する初号機みたいなもんで倫理的な問題に関してはシンジ君(読者)も作者も置いてきぼりなのだと思う。西尾的なるものに関しては。デスノートがライトとL(メロニア)と神様(正義、推理合戦)の三角関係ばっかりでもうひとりの神、ポジション的に言うとミサとか家族が三角関係の盛り上げ役ばっかりやらされてるから世界に深みがでなかったのと同じ。前島氏が言うとおり確かに罪に対する手つきは雑になりがちだしさ。ラノベに限らずほとんどのフィクションが。
もちろん神は不在なのでいかに捏造するかがキモになるわけですが、新伝奇系の作品がかけがえのない日常を萌えで隠蔽せずに豊穣な表現で作り出すことができたら、それは小説として、なによりライトノベルとして?とってもブリリアントなことになると思います。なおかつ罪と向き合うことができるなら最高ですよ。現代は思春期それ自体が罪なんだからさ。

貶したかったのか擁護したかったのかアジりたかったのか自分でもよく分かりません。