スペクターはアニメみたいだったということで、まあちょっとインターネッターアニメファンふうの言い方をすれば質アニメ007みたいだったのですが、いわばいかにジェームズ・ボンドジェームズ・ボンドでなくならせるかという話で、もうこれはすごい単純にラストシーンで説明されていて、つまり人を殺さず、銃を撃たないジェームズ・ボンドをフィルムの上に焼き付けるということであり、まあ本当に、卒業であり、祝福であり、娯楽映画としてはおもしろくないけど質娯楽映画としてはバッチリ決まっていて、よかったなあと思いました。

嵐の中でもがく凧であるとか、殺しのライセンスというのは殺さないことを選択することだとかいくつか象徴的なセリフがあったと思うんだけど、ダイエル・クレイグの007を総括しつつ、個人的な憎しみ≒呪いから脱出するというのは亡国のアキトの構図とも似通っていて、ひょっとしたらなんだけども、10年代のアクションもののコアはここにあるのかもしれないなあと感じるわけです。闘争からの脱出というか。
現実の社会性時代性をひっくるめて考えたときに、ひたすらエスカレートしていく闘争状態から身をそらす程度のことでなんだよそれってなるかもしれないけどある種の良心としてそういうことを描くのもアリではないかなあと。

ソードアートオンラインなどは、そういう身振りが反転したときのヤバさみたいなのも感じられる内容だし、ネトゲの戦争と世の中の戦争状態も結局は地続きなので、その中での何かやりたさ、みたいな願望として考えるといいのかな。まあ、こういうのもガルパンの最前線ぶりの積極的誤読と同じ意味です。僕の場合は。

ガールズ&パンツァー劇場版についての覚書

ガルパンの劇場版については、無二の傑作だとツイッターに書いたけども、位置づけがちょっとむずかしいので、ちゃんと作品の文学的美学的なところを自分の中で整理しておきます。
最初に思わされたのは、これはやはりテレビシリーズのあとの話であり、何事かが語られた後のお話であり、つまるところ、何かが終わったあとの、充足されつつある世界の手触りがそこかしこに感じられるフィルムになっていたということです。冒頭のエキシビジョンマッチで提示されるあの充足した世界の手触り……。

この手触りは言うまでもなく、けいおんに代表されるひとつの類型、大げさに言えば非物語的な手触りのフィルムである、ということで、しかしそこに装填されるのが戦車道というすさまじい大ぼらという成立条件がこのフィルムをきわめて特異なものにしている。

テレビシリーズもそういったものがいくらか意識されていたにせよ、プロットは基本的にみほの成長(!)や姉妹の確執、メンバーのそれぞれの家族間の心情の具体的な移動が認められたのだけれど、劇場版においてはその部分は親密さを獲得した接近において語られることになるわけで、それは姉妹の描写が分かりやすいだろうし、ほかのメンツにしたって「こいつら仲いいな」というハッピーでヘルシーな気分になるやりとりが多く見受けられる。

この信頼によって結ばれた幸福感は、何かが終わって満たされつつあったとしても、あるいは何かが欠けてしまったのだとしても、それでも続いていくこと、ひとつの世界を語り続けることによって獲得されたのであり、アニメーションだけが到達できているその境地であると言ってしまってもいい。そこにやはり声優たちの恐るべき存在感を認めなければならない。世界を肯定しようとする力として。

非物語としてのガルパンのテーゼというものがあるとすれば、そこに兵器の駆動音が、戦いの道具の、戦車の轟音が鳴り響いているのだとしても、それは別に打倒すべき存在に向けられているのではなくて、むしろ彼女らが住まうあの世界の祝福のファンファーレとしてあるのだとそう解釈してもよい。敵対すべき、排除すべき何ごとかを決して存在させまいとする決意の轟音として鳴らされているのだと解釈してもよい。あの戦車道という馬鹿馬鹿しい大ぼらの競技で鳴らされる音を、彼女たちによって進行する革命の轟きなのだと解釈してもよい。

たとえば、ガールズパワー≒フェミニスムの炸裂を連想させ、またはミリタリズム≒兵器の駆動、爆走の映画としてマッドマックスを連想するのも間違ってはいないけれど、マッドマックスがある意味では男性的なものに対するいささか復讐心めいた意地の悪い戯画化が為されていたことを想起すれば、そういった息苦しい構図からもガルパンは自由になっているように感じられる。
この世界が押し付けようとするリアリズムに対する考証、リアリズムに交渉するためのフィルムの手触りとしては別のアプローチがとられていて、そこでハリウッドとクールジャパンといった構図が導けるのかもしれないけど、まあそこは別にいいです。

つまりは、重要なのはプロットの希薄さと、社会人チームはもちろん文科省さえ悪役ですらないというような世界観こそが一応は見る側に求められていて、ある種の夢想、人によっては欺瞞に映るかもしれないことを懸命に成立させようとしている営みとしてこのフィルムはある。

その中で、継続高校の不思議な、吟遊詩人のような、能登麻美子の声をしたキャラの言葉は、フィルムの浮遊するリアリズムと現実の私たちを繋ごうとするかのようであり、そして知波単学園の特攻精神は言うまでもなく現実のあの戦争のあの国の住人である私たちに対するものであり、その喜劇めいて置かれる特攻と並行して配置されるプラウダ高校の自己犠牲においては「作劇上の幻惑的な自己犠牲による感動」というような効果があって、特攻の両義的な思考を導きもするだろうし、浮遊したリアリズムにおいても一筋縄ではいかなくて、少し醒めた、うろんな物を見るような視線でこちらを見ていることも忘れてはならない。だから、非常に過激で、闘争的なフィルムだと言ってもいい。世界に対する苛立ちを表明しているという点において。

非物語的なアクション映画という、ある意味では非常にエポックなことを成し遂げているフィルムであり、この達成は突然変異ではなくて、やはり続いていたからだということもある。最初に言ったような意味でもそうだし、アニメとして続いたこと、多くの先行作、ストライクウィッチーズをはじめとする商業的成功作から企画されアニメ化された二番煎じとしてのガールズ&パンツァーという作品が、先輩のストパンが不可能な文学的美学的な達成を後輩がやり遂げてみせたということは非常に意義があるというか、まあそのことがアニメシーンにおいては突然変異っぽいんだけどもw もしかすると、アニメシーンの生成する、少しずつ変化していく「今風のアニメ」としてどのようなフィルムを作ればいいのかという部分でうまく歯車がかみ合ったのかもしれません。2015年の日本のアニメがどんなことをやっていたのか、何が出来ていたのかという意味で、エポック。
まあ一言で言うと、島田フミカネキャラがゴージャスな画面でキャッキャウフフしながら激しいアクションをするだけではダメだということである。

いまだに、多くの物語たちは、自身の物語の周囲だけしか旋回できずにいるわけで、まあここでもちろんライトノベルを想起してもよいのだけれど、しかし、その継続させようとする身振りにおいて生まれるものがあるということです。人気作品を真似たものがなにごとかの要因によって、その先行作とは別の達成をなしてしまうというのは、ストブラなどがあり、そういうジャンルの変容の瞬間みたいなものも、僕の中でのシンクロニシティがあって、そこも嬉しかった(ストブラについては前のエントリに少し書いてあるぞ)。 

正直なところ、とりたてて好きな作品でもなかったけれど、この劇場版に関しては、本当にすばらしい映画だと見ながら感じてしまって、何よりも、すごく身近に感じてしまったというか、もちろんそれらはフィルムの幸福感によってもそうなんだけれども、それによって自分に引き寄せようとしたときにこれを傍においておきたいなあというか、自分と同じ街路に立ってくれと、そう思い始めている。愛せるようにこの作品世界が生成変化していったのは、まったく驚くべきことである。
そして、物語から、つまりは物語という概念のおおよその問題から自由になった街路の、つまりは荒野としての街路、現実の僕自身が住む世界と同じ街路に置かれるのではないかと、この世界との闘争の最前線としての街路に降り立ち、その街路ではあのフィルムにいるような者たちのように戦車の轟音を響かせるようになれるのならばと、そんな憧憬めいた感情を刺激されてしまいましたとさ。

相変わらず好調でうれしい。14巻目とかまで続くとこれまで多くの異能バトルの人気作品がモタついてダブついてくるところだけど、ほどよい進み具合にほどよい作品のテンションで安定した読み心地。活劇系の現代異能のフォーマットとしての洗練が達成されつつあるような気がします。どれくらいの世界設定やキャラ描写でどれくらいの語り口でどんなプロットを展開すればいいのかという意味でストブラは先端を開いている。もっと言うと、どんな世界設定の作品でどんな世界の秘密があってどんなキャラがそこに関わっているのかの手綱の取り方のことなのだけど。(くりかえし) しかし過剰さはないので、ある種の批評性というか現代性、時代性というような部分で「刺さる」というような作品にはなりにくい。でも10年くらいラノベを読んでて、メディアの作法としてのパッチワークの技術がだんだん上手くなっていくこと、職人の技が確立していくような感覚があり、それを楽しんでいるという感じです。
しいて言えば、文系SF的な世界観を設定の背景にしながらアクション≒戦争≒テロリスムあたりの諸々に接近していく語り口がまあ時代性のようなものになるのかもしれません。で、これってわりと今までのライトノベル現代異能がやれていなかった領域ではあるのかなと思っているんですよ。禁書やそれ以降の、あるいはタイプムーンが無視してきた近代社会と荒唐無稽な異能バトルをいかにそれらしく接続して語るのかという。接続はちょっと違うな。擦り合わせる力加減(?)というような・・・
もっとも、緻密なシミュレーションであるとか、社会や歴史への深い洞察であるとかが書かれているわけではない。ここではむしろ世界設定の自己言及としてのテロル、破滅の願望としてのテロル、それらテロリストへのシンパシーなんていうと言いすぎかも知れないけれど、それがうっすらと書かれ、当然まあ主人公サイドによってそれは頓挫するんだけど、ひとつの世界観として真っ当に感じられる。異能バトルなのにw
世の中には排除される存在があり忘れられる存在があり失敗する存在があり、それに怒っていたり悲しんでいたり、という当たり前のことを書いている。ひょっとしたら作家としての良心ってそういうことかもなあと思ったりもするわけです。10年代にというか、今現在異能バトルが書かれたり読まれたりすることっていったいどういうことなんだろうとは、まあ、このラインのものに限らず、プロパガンダ臭いものも含めて思うところがあるんだけども。

ストブラは、別に冒険的なプロットに強い動機がある物語ではなくて、都市生活の亀裂というか、絃神島というひとつの楽園≒収容所で共同体が抱えている悪意とどう向き合っていくのかがキモになってきて、現代学園異能の描ける射程ががゆっくりと変化していることが分かるシリーズになってきていると、まあそんなところです。作者の豪腕に唸るとか、血沸き肉踊るような活劇小説、というわけにはいかないのが惜しいところだけれど。僕はもうキャラに愛着湧いてしまっているのでw いわゆるゴリゴリの作家たちのと比べたらべつだんすごいものではないです。ちょうどいい小説です。

さあて、五十嵐×榎戸コンビは果たしてライトノベルなのかどうか。むしろこのコンビでこういう原作をやろうと思ったのはなぜなのか。なにがやりたくて現代異能をアニメにするのかというのが関心であり、ポストスタドラなラノベがいくつかあって、それらは現代異能ではないわけですよ、流行の時系列でいえばらっきょにまで戻っているわけで、までもカドカワタイプムーンでまわしてるから流行の時系列なんてどうでもいいことなのかもしれないが・・・

PVはみるかぎりふつうにブギーポップやらっきょライクな00年代ふう現代異能なわけだけど、生きていいのかうんちゃらかんちゃらのセリフがちょっといわゆる作家性文学性みたいなところか?、いまだになぜ文豪なのか分からないというか飲み込めない。原作読もうかアニメまで待つか悩み中・・・

まあウェブにいくつか原作周りでインタビュウ転がってるんでそのあたり読んでみます。

「すごい景色だね」
「なるほど確かに絶景だな」

STAR DRIVER 輝きのタクト Blu-ray BOX

STAR DRIVER 輝きのタクト Blu-ray BOX

「すごい空だな」
「ああ、すごいな。でも僕たちはこれからこれとは違うもっとすごい空を、きっと見るさ」

いやはや、スタドラだよねと言っていた自分の鋭さが怖いよ。
もう、あのラストシーンのダイアローグを思い出すだけでビンビンになってしまうね。原作の描写がどうなっているのかもう手元に残していないので分からないし、アニメスタッフがスタドラをどっかに意識しながら、なんていうことはありえないだろうけど、まあそれでも多くのライトノベルがスタドラと隣接していることは僕の中で確定しているし、ここ3年くらいすっかり忘れていたけどこれからラノベかますときは避けることはできないだろうと。まあウテナ以降のあの周辺の問題意識でもあるんだろうけど、「それっぽい」というのでなければ共通した問題意識ではないとするのは愚の骨頂であるし。

アニメファンが持つ榎戸の印象の中に青臭い熱血青春というようなイメージを持つことがあると僕の観測では時折あって、まあそれらは、ある判断基準においては作家性としては二流の類になるのかもしれないと考えたことがあって、それをどうやって覆そうかということなんですが、そしてまたある判断基準においてのラノベの二流さ、というのにもつながるわけであって・・・

本当に語られるべき、語られなければならない何事か、その真理への運動が存在する空間・・・

その「真理の存在する空間」に肉薄することが物語に求められるものだとすれば・・・ 

「だめ、アキト。あなたは違う!」

「かっこいいアンタでいなさいよ!」



両作品ともに見ていて「ああ、あのシーンね」となる人がどれくらいいるのか分かりませんが……、ひとつのクライマックスの場面においてこれらはともにヒロインの言霊によってプロットの構図の転換がなされるわけですが、僕が亡国のアキトを好きな理由のひとつにラノベがやれていないこと、できていないことをしっかりやっている、というのが理由のひとつで、いつも言っているみんな同じことをやっているということがありつつも、なんというか、作品の世界設定の密度の中で、何をやろうとするのかで、同じことをやってもやっぱり違うということです。

亡国のアキトについては完結してから長めの文章で語ろうと思ってますが、これくらいのさわり程度ならいくら書いてもいいでしょう。

もう少し詳しく言うと、レイラ・マルカルちゃんは戦わせないためにそのセリフを言うので、一方ステラ・ヴァーミリオンちゃんは奮起させるために(まあただの試合の応援なんだけどもw)そのセリフを言うわけです。ロボットアニメで戦争映画に接近しつつも、ヒロインが主人公機にお姫様抱っこされて悪役から逃げることで「ここは感動的である」というようなムードを提示するフィルムになっていて、初見のときは僕もけっこうな衝撃を受けたのですが、作り手のインタビュウなどでは時折、死への欲望、闘争への欲望からキャラクターたちを救い出したいというような姿勢が伺えるので、ふんふんなるほどと思えるんだけど、たとえばこのような戦わない態度をある種の好戦的な作品の流行の中に置いておくと……。

アスタリスク、アニメはやたらまんじゅう顔なのがかなりのマイナス査定だが、おもしろい。

お前この間の文章アスタリスク見ないで書いてたのかよ。はい。そうなんですよ。

世界設定の全体像みたいなところの納得率が一つの評価基準としてあるんですけど、アスタリスクは2話まで見てみて、意外にもするっと入ってくる。原作読んだときには思わなかったがスタドラなんですよ。

僕はスタドラでラノベ絡めて当時から語っているんだけど、あまり発展性がないことなので流されていた感じがあって、しかしアスタリスクとか見てると、スタドラってけっこうな成功作、名作として主張してもいい気がするね。ライトノベルブーム以降の世界設定の構築の手つきというか。まあぶっちゃけそのあたりはガチガチに検証してもふーんみたいな印象しか残らない気がするけどもね。。。

いあもう全然アニメを見ない生活になってしまったので、自分で見ないと何も書けないんだなあと。まさかスタドラがここにきて、という。

がんばってアニメ見ますわ。

3話見た。うんそうだ。なんとなくこんな話だった。いやしかし、アクション系ラノベほど失笑を誘うジャンルの形式ってなかなかないんだけど、ほんと、もう少しなんだよなあ。もう少しで、こう、思春期の少年少女の何事かを切り取れるそういう形式にたどり着いても不思議じゃない感覚がある。しかも、才能がある人とか、作家性じゃなくて、もうただその形式をなぞれば何事かが程度の差はあれ、手をつけられるくらいの、ここで言えば、世界設定をdisるヒロインとかにそのヒントがある。しかし、それでも、「あなたのやるべきことは何?」 「うおおお、ヒロインを守ることだ〜〜ッ」っていう貧相なイマージュでしか戦うことが出来ないのがこの形式の現在のあり方の一つになってしまっているのだろう。

やりたい事とやるべき事が一致する時、世界の声が聞こえる

こういうフレーズの発明において、確かにこの形式はいまだ天性の感覚の持ち主だけが語りうるジャンルなのかもしれない・・・